台湾の、灰色の牛が背のびをしたとき 米子匡司 犬島は、岡山からすぐ近くの小さな島です。 どのくらい小さいかというと、歩いて回って1時間ぐらい。 ほかの瀬戸内海の島と同じように、大阪城の石垣の切り出し場にもなった島で、大阪城の石垣といえば思い起こすのは各地に時々散らばっている残念石だけど(運ぶ途中に落ちてしまって石垣になれなかった。残念。)残念石の話はともかく、犬島には今でも岩がゴロゴロと多くて。 岩のほかにも、島の中には明治・大正頃に使われていたという銅の製錬所の建物や煙突が残っていて、維新派のセットはその景色と一体になって組み立てられています。 客席もステージも含めた野外劇場自体がこのために組み上げられた大きなセットで、木材で組まれたたジェットコースターみたいな傾斜のスロープを歩いて、客席が段々になっているその一番上まで登って客席につくと、もう演劇がはじまる前から状況ははじまっているようです。 僕は演劇をみる事がほとんどなく、維新派の演劇を見るのもこれがはじめてで。 維新派について具体的なイメージを持っていたわけではなかったけれど、公演がはじまってみると、ともかく予想外のエンターテインメントだったので驚きました。具体的なイメージは持ってなかったけど、なんとなく維新派というのにはアングラとか、そういったキーワードが関連しているように思い込んでいたからです。 夜、まだ辺りが見えるぐらいの明るさから、暗くなるのに合せてセットの照明がつき、前半の舞台は音楽コンサートのように歌がずっと続きます。 この形式が、維新派が確立してヂャンヂャンオペラと名前をつけているものだ、という事すら帰ってきてから人に教えてもらったんだけど、なんかほんとに、心地よく構成されたエンターテインメントでした。集中力を切らさないようにもなっているし、見てて困る事が何もありません。 2曲目の歌が気に入って、印象に残っています。 みずたまり みずたまり みずたまり みずたまり というような歌詞です。 芝居には、テーマとしているアジアや20世紀や島のフレーバーだけがあって、瞬間的に美しかったり、謎めいていたりして、中空のまま音楽だけが流れています。 今まで演劇を見た時にまず困るのは、枕もなく突然にはじまるその設定だったり、舞台上で演劇的な喋り方をしている人たちへの違和感で、それでいくと今回の演劇も(特に口語的な表現や普段と変わらない喋り方を意識したものではなくて)登場人物たちは演劇的に話しているんだけど、しかしなぜか抵抗感はあまりなくて。 なぜかと考えるに、たぶんセットの実在と、それによる説得力がすごいからかと思います。 せっかくずっと中空で、そこにもかしこにもフレーバーだけが漂っていて心地よかったのに、最後にはヒョコっと霧を晴らすようにストーリーが出てきたのが僕にはうまく処理できなくて、それだけが残念でした。あと、クライマックスはワーっとなって終わったんですが、そのワーの高揚感、快感が、どうも僕には強すぎてムズムズしました。 維新派の公演は出店の屋台やライブが有名で、そこには大勢の人が関わっていて、そういう大勢の人が関わる状況ってどうやって作られているのだろうと気にかかり。このとても多くの人の関わる祝祭空間を作り出すには、できごとは中空で無いといけないのかもしれなくて、その辺りの事はもう少し考えてみるべき点のように思いました。