よそみ余所見

余所見は、見たり聴いたりした事と、それについて考えた事などを書くウェブサイトと紙の雑誌です。

第1号(249版)
2017年10月19日 16時40分33秒 発行

連載記事 

掲載日:2011-10-05 23:04:00

【連載記事】川上弘美、「真鶴」(中島彩)

川上弘美、「真鶴」 中島彩

歩いていると、ついてくるものがあった。


という書き出しで始まる、川上弘美の小説「真鶴」を読みました。

この「ついてくるもの」が何なのかは最後まで言及されていないけれど、この世のものではない存在、ほとんどの人には見えないものであることは確かで、幽霊だともとれるし、主人公の思いが彼女だけに見せている、ただの幻なのかもしれません。

前半に登場する「ついてくるもの」は不特定の無名の存在なのだけど、後半、それは失踪した彼女の夫となり、彼への未練によって彼女自身が「ついてくるもの」になってしまいそうになります。

読み進むに連れて、彼女の夫を「ついてくるもの」にしたのは彼女自身かもしれない。わかりやすくいえば、彼女が夫を殺害したのかもしれないということがほのめかされ、そう読むとミステリー小説のようにも思えてくるのですが、そこにある怖さは「殺人」の恐しさではなく、はっきりと断定しないがゆえの曖昧でしっとりとした、「怖さ」です。


さて、その怖さを引き出しているものというか、川上弘美の表現の独自性は、その、「読点」の打ち方にあるんじゃないかと常々思っているのですが、たとえば、

「夜目に、白い花びらが落ちてゆくのが、きもちいい。ゆっくりと、花びらは地面に届く。一枚、ちぎり、もう一枚、ちぎる。」

といったように、そこに読点がなくても意味が通る文節でも、そこに読点があることで、間合いをつくりだしています。
その間合いは、文の勢いやリズムで読者を巻き込むものとは違い、作家と読者の距離を意識させるようなものなのだけれど、その突き放され感があることで、読者はその立場を保証され、小説を楽しむことができるように思います。

というようなことで、私は川上弘美の小説を読むのが好きなのだけれど、さておき。

読点のことを考えるといつも思い出す、ある知人のメールがあって、その人もたぶん意識的に使っているのだけれど、その人の場合は、強調したい所や間を置きたい所のみならず、「てにをは」の度に必ずつけているんじゃないかというくらい、読点が、多い。
その文章を読んでいると私はいつも読点につまづいてしまって、次第に内容がわからなくなり、何度も読み返してしまうことになります。

もっと少なくてもいいのに。
いっそなくても意味は通じるのに。

と、思っていると、友人が「ちょっと見てよ、最近メール教えてんけど…」と彼女のお母さまからの携帯メールを見せてくれた。
「くろごまかってきてしょうゆかってきてしごとおつかれ」

やはり、読点は、必要ですね。


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