よそみ余所見

余所見は、見たり聴いたりした事と、それについて考えた事などを書くウェブサイトと紙の雑誌です。

第1号(249版)
2017年10月19日 16時40分33秒 発行

連載記事 

掲載日:2011-10-13 01:06:36

【連載記事】四天王寺の大古本市(中島彩)

四天王寺の大古本市 中島彩

四天王寺の大古本市に行ってきました。

四天王寺は中学・高校時代に通っていた美術のアトリエの近くにあって、馴染みの場所だったのだけど、その頃は学校が終わると盲目的にアトリエに向かっていたので、古本市や骨董市で人がごった返していても、人が多くて通りづらいぐらいな気持ちで、足が出向くことはなかったのですが、随分たった今になって、ふと新聞欄に紹介されているのを見て、懐かしがてら見に行きました。

門をくぐると境内見渡す限りにテントが立ち並んでいて、その下にずらりと本棚。最初の印象は「茶色い」でした。
一冊一冊はいろんな色をしている本の背表紙が、並ぶとなんだか茶色の色面に見えます。
あまりに沢山のテントがあって、それぞれが異なる古本屋のブースとなっているのだけど、とりあえず全体を把握しようと一周します。

一周しながら、どんな本があるのかを見ていくのだけど、一冊一冊がどうしても目に入りません。群れにしか見えないというか、タイトルが読めないというか。
もちろん字は読めるのだけれど、普段本屋や図書館で目にする本はジャンルや著者別で別れているので、ある程度どういうものかが想像できて、その中でのタイトルを見て、一冊の本として対面することができます。
けれど、古本市では隣り合った本がまったく別のジャンルのものだったり、棚の括りが値段や本の大きさ・形だったりするので、一冊の本がまったく文脈のない状況で置かれているみたいです。


少しウロウロして、やっと目に入ったのが「暮らしの手帖」の山積みで、今までに何冊か読んだこともあり、見たこともあり、魅かれてもいるので、「暮らしの手帖が沢山置いてある」と認識することができました。
それがきっかけになって、「茶色い色面」だったのが、少しずつほどけてきて、絵本のかたまり、雑誌のかたまり、文庫本のかたまり、雑誌のかたまり、と、もうちょっと群れで見るようになりました。
今度はそれが「雑誌のかたまり」が多いのはこのテント、「図鑑のかたまり」が多いのはこのテント、とテント=古本屋としてみれるようになってきて、この古本屋は何々系の本が充実してるとか、古本屋毎の特色が見えるようになってきて、その古本屋の特色が本屋や図書館のジャンル分けされた棚の役割を果たしてることに気づきました。
ないように思った文脈も、その古本屋での文脈というのがあるみたいです。

といっても、圧倒的多数の本の並びは今まで知っている本棚の文脈と違っていて、まったく本が見れません。

それに、読みたかった本を見つけても、もしかしたら他のテントにもっと安くあるかもなんて思ったりして、買うことがためらわれてしまいます。
魅かれる本があっても、もっといい本があるのではと思えたり。
そこは大きすぎる森で、大きすぎて木が見えなかったり、どれも同じような木に見えたりする、そこで迷子になった、そんな気持ちになりました。

けれども、本を買っている人はもちろんいて、その人たちには本として見えているわけです。
その人たちはパッと見で木の品種を見分けられるに違いない。
それには、今まで沢山の木を見てきたのに違いない。

私は本が好きなつもりだったけれど、きっとある程度興味ある本棚にしか行っておらず、その中からしか本を選んでこなかったんでしょう。

もちろん、大古本市という広大な森からいつも見ているような本なら見分けることはできるけれど、せっかくジャンルが解体されて隣には普段目にしない本がある状態なのに、いつもと同じものをてにとるのもちょっとなあ。けれど、かといって買ったはいいが読まなくては元も子もないし。

結局私は何も手に取らず、本の中をさまよって歩いて帰ってきただけでした。

あらためて、本に出会うには本棚、あるいは本の並びが重要なんだと思いました。
図書館。個人経営の本屋。チェーン店の本屋。古書店の本棚。キオスクの本棚。ブックオフの本棚。セレクトショップの本棚。
amazonの本の並び。
なかでもやはり古本屋は、売る人間がいないと成立しないわけで、古本屋の店主の思惑がそのまま反映はしないわけです。
それが一堂に会した大古本市…。

いつか、大古本市でいい買い物をしたと言えるような日が来ればいいなと思いました。


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