よそみ余所見

余所見は、見たり聴いたりした事と、それについて考えた事などを書くウェブサイトと紙の雑誌です。

第1号(244版)
2017年6月23日 17時14分31秒 発行

連載記事 

掲載日:2012-03-18 10:39:49

【連載記事】0人いる!(山本握微)

0人いる! 山本握微

 「ダンジョンマスター」というコンピュータゲームがある。……といっても、余所見の如きハイソサエティなウェブマガジンの読者諸賢に、コンピュータゲームなんて俗悪なものに興じる人はいないと思うけれど(みんな「こま(?)」に行くんでしょ)、ましてや一昔前の海外製リアルタイム3DダンジョンRPGで遊ぶ人はいないと思うけれど。今ここでゲームの話を書きたいわけじゃない。ゲーム・レビューなどではない。或る、お伝えしたいことのために、このゲームの話を通過しなくちゃならない。それも、ちょっと微妙な道を通るため、軽く概要だけ触れるわけにもいかない。

 「ダンジョンマスター」というコンピューターゲームがある。もちろん、僕も遊んだことあるが、詳しくはない。プレイヤーは、4人のキャラクターを編成して、迷宮に潜り込み、罠や怪物の襲撃など各種の困難を乗り越えて、諸悪の根源的な要人を倒す。こんなゲームだったと思う。迷宮に罠や怪物、ってんだから、現代日本のお話でなく、西洋中世風ファンタジー。
 プレイヤーが操作する「4人のキャラクター」は、予め用意された総勢24人の中から選択する。それぞれ、力が強いとか、器用だとか、個性があり(あると思う)、それを考慮しつつ、または趣味に応じて、自由に選択できる。そんな流れは、この手のゲームでは珍しくない。
 この「キャラクターを選ぶ」は、ボードゲームで駒の色を選ぶみたいに、単に事務的に選ぶってのもあるけれど、古くは「ウィザドリー」、メジャーなところでは「ドラゴンクエスト3」では、「酒場でたむろしている連中から仲間を募る」という体裁をとる。現代日本に於いて国運を左右する決死隊を募る時、和民の客に声をかける、ということは想像しにくいが、ファンタジーな世界において酒場は、百戦錬磨のフリーランスな人がたむろしているのが相場となっており、物語にかなっている。

 でこの「ダンジョンマスター」には、もう少し「キャラクターを選ぶ」のに物語がある。実は、ゲームが(物語が)始まる前、既にこの24人は決死隊として潜っており、返り討ちにあっている。黒幕は、見せしめに、魔法の力か何かで、鏡みたいなのに彼ら閉じ込めて「牢獄」に入れてしまった。「牢獄」には、まるで美術館のように、人が封じ込められた鏡が並んでいる(怖いね)。それから色々あって、再挑戦するために、この「鏡」から4人を選んで助け出す(=ゲームに使用するキャラクターを選ぶ)という体裁になっている。
 この「ダンジョンマスター」ゲーム画面はひたすらダンジョンの中なんだけど、このキャラクターを選ぶ「牢獄」もまた、ダンジョンなので、

【キャラクターを選ぶ前、つまりゲームが始まる前から、キャラクターが誰も居ない状態から、ゲーム本編と同様のインターフェイスで操作する】

 長くなりましたが、今回この記事で書きたかったことはこれ。
 一人目のキャラクターを選ぶと、今度はそのキャラクターが「牢獄」を歩くことになります。で、その一人目が次の二人目を選ぶ。同じ感じで、三人目、四人目と選び、「牢獄」を抜け出せば本編の迷宮が始まります。

 このゲーム、一種のギャグか、間違って壁のある方向に進もうとすると「オフッ!」って呻き声とともに、ごくごく軽傷を負います。壁に頭でもぶつけたんですな。
 しかし、キャラクターを選ぶ「牢獄」。一人目のキャラクターが二人目のキャラクターを求めて彷徨う時、勿論壁にぶつかって軽傷を負うこともあるんですが、肝心要「一人目」を選ぶ前、彷徨う「主体」は、まだいないのでそういったことはありません。

 ゲーム開始直後から一人目を選ぶその瞬間、短い間ですが、「0人目」なのに「主体」がある、という不思議な状態。この、「ダンジョンマスター」抜きには理解し辛いこの感覚。これが、ごくたまに、日常の何かで連想したり、或いは役に立ったりもします。

 例えば、誰にも行き先を告げず一人散歩していると、こんな感覚に陥ることがあります。道行く人にぶつかったりしなければ、自分は今、周囲から存在しないも同じ。夢中で前を向いて歩いていると自分の身体も見えないし、自分自身の存在も忘れてしまう。ああ今、誰でもない存在が、ふらふら彷徨っている。ダンジョンマスターみたいだな、とか。

 よく認識論?とかで「地球に落ちた最初の雷に音はあったか」「世界は本当にカラフルか」という問いがあったかと思います(多分)。音も色も、人間の五官が各種の振動を受けて、脳内でしかるべく変換しているので、今認識できる世界は、飽くまで人間にとって。そこで、「世界本来の姿」を想像する時(んなもの無い、でもいいんですが)、「0人目の主体」が役に立つかもしれません。

 もう少し実用的なところでは。何か「作品」を作るとき。作品の種類によりますが、ハードとソフト、というかベースとメロディといいますか、この土台と実体が揃わないと作り始めることが難しい。で、大抵の場合、それがうまく揃わないで頓挫してしまう。で、取り合えずハードの方を先に整備しますわな。でも、この土台からして難しい。
 そこで「0人の主体」が「一人目に先駆けて動く」ことを参考に。敢えて「ソフト」の方から走らせる、とか。或いは「ソフトはないけど走らせる」とか。これ「取り合えず悩むより始めてみよう」的なメンタル仕事術の類でなく。「始める前から始まっている」「始める前を始めることができる」というか、事例によるんですが、割と具体的で画期的なアイデアになったりします。

「さすが余所見のプロ、山本握微。一昔前の海外製リアルタイム3DダンジョンRPGから、こんなに含蓄の深いことを見出す。これが巷間話題のゲーミフィケーションというやつか」いや全く。

 こういう、それ以上分解できない概念といいますか、感覚といいますか、パターンといいますか(僕は「運動」と呼んでいますが)これを収集・整理・一覧化できないものか、と以前から考えています。すぐ忘れるのでなかなか。
 これは「0人の主体」という、「ダンジョンマスター」から得たマニアックな「運動」ですが、もっとメジャーなのも沢山あります。そも「ハードとソフト」とか。ハードとソフトは、単なる二元論でなく、役割が正反対というよりずれているところが面白いですね。
 或いは「ハードとソフト」という概念と「0人の主体」という概念では、そもそも種類が違うのか。まあ、僕の出来が悪いオムツではこれ以上はよくわかりません。

※ 24人のキャラクターのうち2人は、特別に強力なキャラクターとなっており、牢獄の中でも隠し部屋に閉じ込められています。その隠し部屋に進入するためには、(確か)スイッチを押したりしなけりゃならない。「0人目」には、その操作が不可能です。押す指がないし。そこで、強力なキャラクターを戦列に加えるためには、予め最低一人選ぶ必要がある。その一人が、隠されたキャラクターを探しにいけるわけですが、隠し部屋にはモンスターも沢山待ち構えています。ああ、0人目ならモンスターに噛み付かれる心配もないのに……。この葛藤もたまんねえ。

※ 古いゲームは、現実世界の再現能力に限りがあるため、また単にゲーム作りの経験や慣習が蓄積されないため、独特の「運動」を持つことがよくあります。

※ 文体が途中で変わっているのは日付変更線を超えたためです。


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