よそみ余所見

余所見は、見たり聴いたりした事と、それについて考えた事などを書くウェブサイトと紙の雑誌です。

第1号(247版)
2017年8月15日 16時52分12秒 発行

連載記事 

掲載日:2012-10-23 02:46:22

【連載記事】バランス(山本握微)

バランス 山本握微

 これは飽くまで例ですが。「若い頃にこそ苦労してでも勉強しておく」という意見と、「若い頃こそ遊んでおかないと」という意見が、それぞれ対立してある、とする。
 若い頃に苦労して勉強したら、その分知識が身について後で役に立つだろう。その代わり、遊びを知らない、つまらない人間になるかもしれない。若い頃に遊んでおくと、それはそれで豊かな経験としてこれまた役に立つかもしれないが、一方勉強を疎かにした分、恥をかくこともあるだろう。……勿論、勉強も遊びもどっちもやったらいいんだけれど、一日が24時間である以上、各種の工夫を凝らしても、遊びと勉強(それだけじゃないけど、まあ例として)、どこかで取捨選択しなくちゃならない。
 ある人は遊びを優先し、ある人は勉強を優先する。それぞれ、お互いを批判するかもしれない。「遊んでばかりじゃなく勉強しようぜ」「勉強なんかより遊ばないと」。そういう言い争いは、あるだろう。故に、二者は対立している。
 が、一方で、これらは二者それぞれ価値観が違う、とも言えない。それぞれ勉強、遊びを選んだ時の長所、短所、得るもの、失うもの、についてはお互い同じ意見だろう。遊べばその分、勉強時間がなくなるし、逆もしかり。それについて意見が違うわけじゃない。同じ価値体系の中、選んだものが違うって話だ。「遊びの中に勉強を取り入れる」とか、ややこしいことを言わない限り、それは対立しているどころか、ある意味で全く同じ立場といえる。

 この例を引き続き用いると。実際問題、それぞれの立場を選んだ人は「遊んでばかりじゃなく勉強しようぜ」「勉強なんかより遊ばないと」なんて、あまり言わない。「遊んでばかりきたもんだから、バカになっちまったよーん」とか「学生の頃は勉強漬けでして、世間知らずお恥ずかしいですわー」と、選んだ立場を堂々主張するのでなく、一種の謙遜に転換して提示するようになる。この状態が引き起こす問題については、僕は昔から指摘してきた(誰も僕の昔を知らないが)。
 ただ最近、これをすっ飛ばして、別の、より厄介な問題が見えてきた。本日はこれが本題。

 勉強か、遊びか。安易な二元論を例にして恐縮だが、安易のままにしても、勉強一筋か遊び没頭か、どちらか一極を選ぶわけじゃない。勉強6で遊び4。勉強2で遊び8。とか。前述の通り、対立しているわけではない価値体系の中で、どういう割合、バランスでいくか。それを各々決定していく。

 問題というのは、勉強か、遊びか、AかBか、という結論を出すのと違い、バランスに対する結論については、色んな意味で過信されがちなこと。AかBか、だけなら、まだ前述の通り形だけの謙遜が入ったり、もし反対の立場なら、といった想像力も働きやすい。
 ただ、バランスについての結論は、これはもう、本人にとってぴったりはまって、また、同じようなバランスをとった他者と突き合わせても、正にこのバランスだ、ってなる。

 今気付いたのだけれど。この問題が見えてきたのは僕も年をとったからか。若い頃は、AかBか、選ぶところだったから。そっから十数年立って、積極的に選んだかはともかく、周囲の人も含め皆が皆、結果としてバランスをとってきた。そして今がある。これはもう、肯定するしかないんか。また、その過程で、似たバランスの人とつるんできたのだし。

 一見、過信に見えないこの過信。自分が選んだ、バランスに対する疑いようの無さ。これはある意味で良い話にもなるもんね。ま、色々あったけれど、これが俺よ、ってな具合で。ま、そんな俺、悪くはないね、と。おすすめはしないけどね、ま、俺はこうだし、って。

 でも、あらゆる物事がそうであるように、何事も絶えず疑い、検証して、違うバランスの人や、違うバランスであったかもしれない自分、などと思いを巡らす余地は必要でしょう。

 多様性、を重視する文化系左派の僕や皆様も。多様性を重視するから、「勉強」派も「遊び」派も、どっちもこいや、みんな友達やで!とは言える。それは一見、その間に立つ様々なバランスのあり方も許容しているように見える。一方で、文科系左派の内輪が、似たもの同士で仲良く「排除」を発動しないですむのも、バランス感覚を共有することで、異なるバランスの人を暗黙のうちに予め排除しておけるからか。

 ちょっと前の「宇宙兄弟」で、こんなシーンがあった。宇宙兄弟、そんなに知らないので人名や詳しい状況は忘れましたが。宇宙飛行士を目指す主人公は現在、地上から宇宙飛行士をサポートするミッションに従事している。それは、一人の宇宙飛行士とパートナーになるような仕事で、物語中、気難しそうな宇宙飛行士からその役を全うできるに相応しいか試される。
 その最終的な試験として、宇宙飛行士は主人公に一つ質問する。「宇宙飛行士として、死を覚悟しているか」(でしたっけ?)。この質問に、僕なら、或いは脇役が実際に答えたように「はいはーい。覚悟してます。宇宙飛行士ですもの!」と安易に答えるだろう。それが相手も気に入る答と確信して。しかし主人公は「覚悟してない」と答える。「死ぬつもりは無いから。無事生きて使命を果たし帰還することを考える」と。覚悟していない、この意外な答は、しかし、気難しい宇宙飛行士が期待していたものであった。

 これは「良いシーン」なんすよね。この答がパートナーとしての信頼を決定付ける。そも、この「宇宙兄弟」って物語は、弟に先に夢を叶えられ、自身は解雇の憂き目にあう(能力がずば抜けて高いわけじゃない)主人公が、その都度、絶妙な「バランス」感覚によって、各種試験を突破していくもの。「宇宙兄弟」に限らず、多くの漫画が、主人公の能力の高さでなく、「バランス」によって物語を突き抜けていく。

 しかしねえ。これは全く根拠の少ない理不尽なギャルゲーでも遊んでいるようで(「中山美穂のときめきハイスクール」みたいな……あれはテレフォンサービスで情報収集するんだっけか)。別に、死を覚悟した宇宙飛行士も良いと思うんですよね。というか、どっちでも、言いようだ。宇宙船内でトラブルが発生した時、死を覚悟してるから冷静な判断ができるのか、死を覚悟していないから生きるために正しい判断ができるのか。どうとでも。

 勉強か、遊びか、という選択肢が実は瑣末なように。そのバランス選択も瑣末だ。それ自体は何も結論付けるわけでなく。というか、それ以外、様々な選択が十分、あるってことだ。しかし、このバランス感覚は非常に重視され、自身のバランス感覚を過信し、共有するバランス感覚を持つ他者を信頼する。また逆に、違うバランス感覚を持つものを排除する。それはもう、安心して排除できる(死を覚悟した宇宙飛行士?そんなやつに大切な使命を任せられないね!)。「勉強」派は、「遊び」派を安易には排除しない。時に敬い、また自身の立場を後悔し、相手の立場に思いを馳せるかもしれない。だが、選び取ったバランスについては、その両者を予め汲んでいる(と思い込んでいる)ため、自身も他者も否定しにくい。

 最近、色んな人と話していて、このことをよく考えます。

※ ちょっと論点はずれますが……。例えばネットの時代において、ある「作品」が多数の目に晒されるとしますやん。で、その作品は評判が良く、肯定8割やと。でも2割の人から批判される。この時、このネット時代の感覚に慣れた作者は。多様な意見を認めるが故に、2割の批判にいちいち落ち込まず、そういう意見もあるね、と大人な感じで含む。それは、2割の人にとってはダメダメである、0点である、でなく、自分の作品は「8割肯定2割否定」そんなバランスのもんさ、2割の否定はどんなもんだってあるさ、となる。まあ、それはそうなんだけれど、例えばネット慣れてない人なら、2割の人の批判を真に受けて落ち込むかもしれない。それはそれで、自身の作品を検討することにおいても、必要なプロセスであったかもしれない。バランス、って考えると、そんなもんさ、ってなるような気がする。果たしてこれは、どんなもんなんだろう。


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