よそみ余所見

余所見は、見たり聴いたりした事と、それについて考えた事などを書くウェブサイトと紙の雑誌です。

第1号(249版)
2017年10月19日 16時40分33秒 発行

連載記事 

掲載日:2012-12-31 12:54:13

【連載記事】手話の残心(山本握微)

手話の残心 山本握微

 その業界では別に何てことない普通、なのだろうけれども、素人の僕から見れば、はへえふうむ、なことが二つほどあったので、その二つ目。

 シンポジウムで、手話通訳が活躍する、の巻。

 知的な僕は、休みを利用して、東京大学内で開催される、極めて高度な芸術学に関するシンポジウムを聴きに行きましたとさ。

 会場は講義室でなくホールで、このために客席用の椅子が多数並べられていました。壁面の中心には演者用のスクリーンやらテーブルやら演台やら。お決まりの構図ですが、それをやや崩すように、端の方で、逆向きの椅子が一つ。そこに座る、スーツを決めた知的な女性。如何なる関係者か? シンポジウムが始まる前、すでに「雑談」していたのでわかりましたが、手話通訳の方でした。

 「成程……さすが東大、イベント時には手話通訳までいるのか」とその時思いましたが、よく考えれば、百人程度の聴衆のため、会として手話通訳があるのでなく、飽くまで来場していた一人の学生のためにいるようです。

 シンポジウムが始まりました。僕はこの会場で一番頭が悪いにも関わらず最前列に座っていたため、端の方にあった手話通訳の様子はあまり視界には入りませんが、気になってついそっちの方を観てしまいます。

 最初は、「まあ、そういうのもあるわな。ないと困るわな」程度に思っていたのですが、僕自身が難解な議論についていけない中で、これ手話で同時通訳って、ちょっと無理だろう、って気になりました。内容に一切関知せず、聞いたまま音を伝える、だけに徹しようにも、手話ニュースのように話者がゆっくりはっきり喋るわけでもなく。ぼそぼそと高速で放たれる、美学用語やドイツ人名、どう処理されているのやら。

 一組目の発表が終わり、休憩もそこそこに二組目の演者が登壇します。その時、手話通訳の人は普通の客席に戻り、同じくスーツを着たもう一人の女性が前の席に座りました。選手交代! そっかー、今日は4時間の長丁場。当然一人でこなせるわけはなし。今日のプログラムを見るに、計4セクション。その度ごとに交代かな。

 と、思いきや! 前方では議論白熱。その瞬間、話の途中に話者がさっと、立ち上がり、すかさずさっきの一人が席に着き、手話通訳を続けます。
 よくわかりませんが、「もう無理!」な瞬間には交代するようです。この、素早い交代は、この日何度も見られました(ファミコンの「キン肉マン」でリングの端で素早く選手交代する様子が想起されました)。

 かくて、壮絶な手話通訳が4時間に渡って繰り広げられました。「では本日はこれにて」と司会がアナウンスして、その言葉を安堵の表情を浮かべ手話訳するのを僕も見届けました。そして、肩の力を抜き、顔も仕事を終えた表情に戻ります(表情も、手話訳の一つなんでしょうか)。

 が、次の瞬間! まるで忘れ物を咄嗟に取りに行ったかのように、両方の手首を同時にくい、と上げる仕草をされました。もう仕事を終えた後の「形だけ整える」ような手話でした。
 これは……今のは「終了」の合図かな? まるで武道の「残心」のよう。それ自体の通訳を終えても、すぐに終わらず、きちんと一定の型を残す。或いはプログラムにおける「end」のよう。わざわざend命令を書かなくてもプログラムが途切れたら勝手に終了するが、きちんと書くのが筋。
 こういう所作に、何だかドキドキしてしまいます(本当にそういう意味だったのかわかりませんが)。

 それにしても。街中で視覚障害者にはよく出会いますが、よく考えれば聴覚障害者には気付かない。その馴染みの無さか、視覚障害者に比べれば全然、と思ってしまう。生活はともかく、学術に関しては文字が読めるのだから。しかし、大学生活の中心たる講義は、聴覚中心。今日のようなイベントだけでなく。あの二人は「大学」の職員なのだろうか。でも通訳は「講義」に対してでなく、「学生」個人につかないとフォローしきれないだろう。或いは、学生個人が通学のために雇っている二人なのだろうか。いやはや。なんちゅう膨大なエネルギーが……。


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