よそみ余所見

余所見は、見たり聴いたりした事と、それについて考えた事などを書くウェブサイトと紙の雑誌です。

第1号(249版)
2017年10月19日 16時40分33秒 発行

連載記事 

掲載日:2013-02-02 11:38:55

【連載記事】物がごみになるとき(中島彩)

物がごみになるとき 中島彩

 私は我ながら物持ちがよくて、今も布団に敷いて毎日寝ている毛布は幼稚園の頃からのものだ。ピンクをベースにどーんとクマさんがプリントされている。クマは青いオーバーオールを着ていて、顔の横の吹き出しから「OYASUMI!」というメッセージを放っている。縁取りの布は幾個所も糸がほどけていて、完全に布がめくれてくれば、その都度縫い合わせて使っている。もう20年以上になる。
 他にも、子どもの頃から使い続けているものはたくさんある。
 それらのほとんどのものに、特に愛着があるというわけではなくて、ただ、直せば使えるということと、お直しする暇もちょっとした技術もあって、お金だけがないというだけだ。それから、ここ2年くらいの間の引っ越しの際にもいくつか思い切って物を処分しているから、なおさら今家にある物は長く使えそうな精鋭隊ばかりだということもある。
 そんなわけで、うちには今あまりゴミになりそうなものはないのだけど、それでもまあゴミ予備軍と言えるような物はあって、一人暮らしを始めた時に購入したタオルとか、手のひらの部分が薄くなっている手袋とか、そろそろかなと思いつつ、なんとなく決めきれなくてまだ使っている。
 それらや、色んな物がゴミになるときのくるっとした転換が前から気になっている。

 スーパーのレジ袋が、買い物からの帰りは道具の役目を果たしているのに、物を取り出した瞬間にゴミ予備軍になる。(レジ袋は一応とっておくけど)商品が入ったパッケージが、中身が取り出された瞬間にゴミになる。人参から切り落とされた瞬間から生ゴミになるヘタ。地面に落ちた瞬間にやっかいなゴミになるガム。
 とたんに無価値な物や不衛生な物になったりする。
 その、くるっとした変換は、物自体は全部見えいてるのにも関わらず、目に見えていない。
 地面に落ちたガムは、「あ、今バイキンがいっぱいついたのだな。」とか。靴下にとんでもない穴があいた時は、「あ、履いても寒そうだな。」とか。まずそんな風に想像するところから始まって、でも一瞬「さっきまで使えるもの」だったのに、と躊躇する。それから、えいやっとゴミ箱に捨てる。この時は心の中で、少し投げやりな、暴力的な気持ちが発生している。でもときどき思い返して、ゴミ箱を漁って取り出し、もうちょっと洗って使おうとかなることもある。
 一見、「ゴミ」と「非・ゴミ」は紙の様に裏表があって、それはくるっと転換されるもののようなんだけど、実は「ゴミ」と「非・ゴミ」は線状のメーターの端と端のような物なのかもしれない。そのメータのメモリを動かしているのは、基本的には自分の裁量で、「ピピピッ!今、ゴミに一歩近づきました!」とか、「ピピピッ!穴は修復されました。非・ゴミエリアに戻ります。」とかが頭の中で起こっているのだと思う。で、たまに計器が壊れて「ピーーー!!!全部ゴミ、全部ゴミ、捨てちゃえ!捨てちゃえ!」なんてことが起こって、溢れた物を捨てる日が来たりするのかもしれない。

 なんてことを考えてたら、そういえば子どもの時はよく、「この世界は全部わたしが見ている夢で、ほんとは何も存在してないんじゃないか」とか、「ふっと目が覚めて、まったく別の世界があったらどうしよう」ってことを想像して、怖くなったことを思い出した。

というようなことを、朝散歩しながら、道に出されたゴミ袋を見て、考えていた。


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