声のはなし 中島彩 「イリュージョニスト」というアニメーション映画を見た。 年老いたイリュージョニスト=手品師の男性と、彼とは違う国の生まれの女の子の交流を描いた物語である。 彼らは言葉が通じない。 映画は通してほとんど台詞がない。 あったとしても、物語の進行にはあまり意味を持たない。 物語は目で見る映像によって伝えられる。 そのストーリーそのものは、個人的には腑に落ちないものだったのだけれども、無声映画の時代ならまだしも、現代の映画であって、音を使わずに(実際には音楽や効果音などは使われているけれども)映像でこれだけのことを伝えることができるのかと感心した。 それとはまったく逆の話で感心したアニメーションがある。 「じゃりン子チエ」のTVアニメ放映分を去年の夏あらためて見た。 アニメ映像としても、たとえば重要なシーンで登場人物の表情ではなく手元や後ろ姿を描くなど、映像的に優れた表現だと思うのだけど、それよりもまず登場人物たちの会話がいい。 生きた関西弁。 たとえば主人公チエの父親テツは、町のゴロツキにからむとき、「あほんだら」ではなく「あほんだら、ボケカス」と言う。そう、本当の大阪人は「あほんだら」では済まさずに、枕詞のように「ボケカス」をつける。 テツの声優は漫才師の西川のりお。監督は、本職の声優ではない彼に、脚本通りではなくアドリブを積極的に許し自由に話させたという。 他にも多数の漫才師や吉本興業の芸人らが声優に起用されている(特に劇場版では豪華な顔ぶれ)。が、本職の声優の仕事にも着目したい。 小鉄の声。 小鉄は猫である。なので、チエら人間たちとの会話は成り立たず、人間が中心に映し出されている時は小鉄ら猫の台詞は「ニャー」である。ちょっと間の抜けた「ニャー」の声。 しかし、猫同士の場面では彼らの会話は人間語に翻訳され、視聴者に届けられる。そこには猫の社会があり、人間界と同じような葛藤があることがわかる。なかなか鋭い洞察で、人間社会のことを観察していたりもする。その時には冷めたような視点が「じゃりン子チエ」の世界により深みを与えている。 私が最も好きなシーンは第6話。 お父はんが買ってくれた運動靴を履いて、チエがマラソン大会で優勝した。喜びを分かち合いたくて、チエは夕飯の支度をして家で待つ。しかしテツは帰ってこない。チエは食卓でそのまま眠ってしまう。そのチエに小鉄は「風邪ひくど」と上着を掛ける。その、なんとも優しい、小鉄の声。 小鉄はいつでもチエを見守っているのだ。しかし小鉄の放つ言葉はチエにはいつだって「ニャー」であり、ときには小鉄が重要なことを話してかけているにもかかわらず、チエに「うるさいなー、だまっとり」と邪険にされることもある。 「じゃりン子チエ」の世界は、下町の人々の人情溢れる交流を描いているように思われがちだが、そうではなくて、常にコミュニケーションは断絶され、思いはすれ違ってばかりいる。それでも一緒に生きていくしかしゃーないなーという、諦めと許容。それが魅力なのだ。 話がそれた。 小鉄です。 その小鉄の声優こそが、永井一郎さん。 サザエさんの波平役です。 他にもゲゲゲの鬼太郎の子泣爺だとか、うる星やつらの錯乱坊だとか、ハリーポッターのダンブルドア校長の日本語吹き替え役だとか、なんともなんとも味のある役をこなしてこられました。 三日前に亡くなられたと訃報を聞いて、今晩はなんとも寂しい気持ちです。