よそみ余所見

余所見は、見たり聴いたりした事と、それについて考えた事などを書くウェブサイトと紙の雑誌です。

第1号(249版)
2017年10月19日 16時40分33秒 発行

連載記事 

掲載日:2014-03-01 22:24:36

【連載記事】山にのぼる。(中島彩)

山にのぼる。 中島彩

ときどき、山に登りたくなる。
最初に山に登ったのは、二十歳のとき。
旅先で知り合った男の子が、槍ヶ岳の山小屋の息子で、その縁で夏の一ヶ月、山小屋でアルバイトをすることになった。それまでは山登りと言えば、家族で金剛山に登ったり、中学・高校の6年間、毎年学校行事として行われた葛城山の耐寒登山だったりで、本格的な登山というものを知らなかった。
初めて登った槍ヶ岳(バイトをしていた中腹の山小屋まではヘリを使ったので、実際に自分の足で登ったのは登山道の半分だけど)と、その隣の南岳への道のりは、いまでもよく覚えている。
道の途中から、木の丈が短くなってきて、自分より背の高いものがなくなり、見晴らしが良くなる、森林限界というものが本当にあると初めて知った。
稜線を歩くと、右にも左にも何もなくて、この稜線の本当に線の真上に雨が降れば、右か左かどちらに流れていくのだろうかと考えた。転がり落ちるとしたら、右か左がどちらの方がマシだろうか。どこまで下界を覗き込んでも引っかかりそうなところはなくて、ゴツゴツとした山肌が延々と続いていた。
雲が自分の足より下にあった。雲が水蒸気でできていることをようやく目で見て確認できた。
自分の呼吸が浅かった。空気が薄かった。

その夏が終わってから、友人知人に誘われたり誘ったりで、毎年一度はどこかの山に登っている。登山者としては全然かりそめのアマチュアクライマーだけど、山に登るという行為は、「映画を見る」というような趣味よりかは確実に「する人」と「しない人」に分かれていて、「しない人」は一生しないだろう。そしてそういう人からは「いったい何が面白いの?」「何をしに行くの?」と聞かれる。

何をしに行くんだろうか。山頂でゆっくりと景色を楽しむでもないし、体力の限界に挑戦するようなスポーツ精神も持ち合わせていないので、自分で確実に登れるレベルの山を確実なペースで行くように計画する。野生の動物や珍しい高山植物に出会えれば嬉しいけれど、出会えなくても問題ない。

楽しみとしてパッと思いつくのは、事前のしおり作りと買い出しだ。
しおりにはまず、「日程」「行き方」「一日の予定」を書くべく、計画を立てる。なるべく前後に忙しい日が来ないような日取りで、乗り継ぎにも余裕を持てるよう電車やバスの運行時間を調べ、休憩も的確にとれるコースタイムを設定する。それからその季節にあった「服装・装備」。山の気温は街中よりも低いこと(標高が300m上がる毎に気温は2度下がる)、歩いてるうちに体温は上がることを想定して、調整しやすい服装を。それから、岩場が多いのか、沢があるのか、木が茂っているのか、そんなことにあわせて足下の装備を。途中、靴擦れしたり、こけて手をついたときに手のひらを擦りむいたり、鼻水が出たりするかもしれないと、絆創膏やティッシュも準備する。そして大事な「食料と水分」。山中で水が確保できるのか、できないならば2リットルは持っていきたい。冬ならうち半分は魔法瓶に温かいものを入れて。食料は、食べるところや状況がありそうなら、塩の利いたおにぎりをむすんでいきたいところ。なさそうならば、歩きながら食べることも考えて、手にもって簡単に食べれるものを。普段は憎き脂肪の元のチョコレートや飴やキャラメルが、このときばかりは優れた「行動食」「非常食」となる。
こうして必要な装備や食料が整理できたら、いよいよ足りないものを買い出しに行く。登山用品店では新製品や知らなかった商品を見て心を躍らせる。1本まるまるカタチを崩すことなく持ち運べる、バナナケース。強風でも火が消えない簡易コンロ。首からぶら下げるひも付き防水地図ケース。ドラッグストアで、カロリーメイト的な固形栄養食を見る。一日一本で必要な鉄分が取れる、ドライフルーツがぎゅっと詰まった、夕方からのがんばりに、そんな踊り文句に踊らされる。ポケット菓子コーナーで、甘い飴かしょっぱい飴か、口の中でゆっくり溶けるキャラメルか、直ちに甘みが広がるチョコレートか、登山道で息を切らしながら私はどんなものを欲しているだろう?
そんな風にさんざんわくわくして結局、予算の範囲内で、最初に決めていた分だけの買い物をする。
ここまで、もう頭の中では何度も山頂を踏破している。

そして前夜、わくわくして、眠れない。やっと眠りにつき、明け方、夢で山に登る。

なので当日の朝には、私の登山はすでにほとんど終わっている。あとは事実の確認だけが残っているような、証拠を探しにいくような、そんな心持ちで出発する。

それでも、予想している以上のことがだいたい待ち構えている。
それは一緒に登る人との間で交わされる出来事だったり、予想外の天候や地面の状態だったり、それによる肉体の思わぬ疲労や痛みだったり。
もし予想されていた範囲内のことしか起こらなかったとしても、確認作業は隅々まで送り込まれる酸素を伴って行われる。頭で考えていたことを、全身を持って受け止める。それが何とも気持ちよい。

先月、奈良の高見山に登った。大雪で、当初予定していた山へのバスが運休となり、急遽、すでに登ったことのあった高見山へ。山頂は猛吹雪で、景色も何も見れなかったけれど、雪の上で何度もすっ転んだのが楽しかった。その前日は大阪も雪で、マンションの階段で滑り落ちたときにできた太ももの痣はまだ今も色濃く残っているが、この日、山で転げた分には少しも怪我らしきものをしなかった。
山の雪は深くふわふわとクッションみたいだったけれど、都会の雪は浅く、すぐ下にコンクリートや鉄筋があって、とても痛かった。





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