よそみ余所見

余所見は、見たり聴いたりした事と、それについて考えた事などを書くウェブサイトと紙の雑誌です。

第1号(249版)
2017年10月19日 16時40分33秒 発行

連載記事 

掲載日:2014-03-04 22:42:56

【連載記事】国立国際美術館にアンドレアス・グルスキー展を見に行った。(中島彩)

国立国際美術館にアンドレアス・グルスキー展を見に行った。 中島彩

アンドレアス・グルスキー。
名前に聞き馴染みない人も、作品を見れば見たことがあるという人は多いんじゃないだろうか、ドイツを代表する写真家である。東京証券取引所や北朝鮮・平壌のマスゲーム大会を撮ったものなどが有名だが、他にも、地平線まで延々と続くどこか途上国のゴミ捨て場や、商品が瀬然と並んだディスカウントショップ、マス目の囲いに何百頭もの家畜牛が詰められた牧場、というような資本主義を象徴とするような光景を題材に、画面の隅々までにピントを合わせ、引きの視点で撮ることで、イメージが反復された抽象的な絵画にも見える画面を構成している。それは、現代社会への鋭い批判のメッセージでもあると同時に、フラットでミニマルな虚構世界、純粋な美しさを追求した視覚芸術の表現でもある。

というのがたぶん一般的な見解で、ここからは私が気に入った作品や、見に行ったことで面白かった点などをいくつかご紹介いたします。

『F1 ピットストップ』
F1(フォーミュラ・ワン、世界最高峰のカーレース)大会でのピットストップの場面を撮影したもの。画面の左右下にそれぞれHONDAとTOYOTAのマシンが停車しており、それらを各チームのユニフォームに身を包んだ数人のスタッフが囲い、エネルギー補給やメンテナンスなどの作業にかかっている。上に関係者席があり、各自動車会社のスタッフがカメラを抱えてピットインの様子を撮影していたり、何やら話し込んだりしている。
F1という「最速」を最上のテーマとして掲げる世界の、とりわけピットインといういかに効率的・合理的であるかを追求する場面、そしてそれらを見守る自動車会社の社員たち。いかにもマッチョな画面なのだけど、よく見ると、画面中央のちょうど左右対称となるその折り目のところに、二人の美女が映り込んでいる。マシンやその周辺のスタッフに比べると、彼女らは日のあたらないところで、いささかぼやけて映っており、またその様子も少しけだるそうに、腕を組んで煙草を吹かしているような雰囲気である。休憩中のレースクイーンだろうか、だれか関係者の愛人なのだろうか、その正体はわからないのだけど、なんといっても、その二人、スタイルが抜群にいい。腰の辺りのきゅっと引き締まったクビレと、そこからはちきれんばかりに広がるヒップライン。まさにグラマラスな肢体である。それは、合理的な男社会とは別の価値観で動く別の生き物のようで、彼女たちが映っていることで、写真はぐっと奥深さを増している。なんともそそられる写真である。

つづいて、
『パリ、モンパルナス』
モンパルナスのアパルトマンを被写体とした写真で、近代的な真四角のフォルムの建物全体と、それぞれの部屋の真四角な窓がはっきりと映し出されていて、格子状に画面に構成されているのはまるでミニマリズムの絵画のようだ。それぞれの窓には、さまざまな色彩のカーテンや、植木鉢、荷物が積み置かれた部屋の様子が映っていて、各戸の住人の個性が表れている。離れて見てもその絵画的なリズムや構成は面白いが、近寄ればひとつひとつの窓からさまざまな人間の物語が垣間見え、見る者を空想の世界に誘う、奥深い作品だ。
カメラの語源は「カメラ・オブスクラ」、日本語で「暗い部屋」を意味する。となると、レンズはちょうどその部屋の窓にあたろうか。部屋=個人の世界と社会=外の世界の狭間にあり、部屋の一部でありながら外に向けられた窓に、同じく「窓」であるレンズを向ける。アパルトマンの住人たちと写真家との間には、撮影時に何か交渉があったのだろうか。そんなことを考えながら、ふと見つけた。
アパルトマンの左上あたりの一室の窓辺に、ほおづえをついた人物らしきシルエットがぼんやりと写っている。表情や髪型もわからないけれど、きっと若い女性だろう。
彼女は何を考えているんだろう?恋人のことでも思い出しながら、物思いに耽っているのだろうか。
なんともセンチメンタルな、それだけが画面に映し出されていたなら押し付けられた叙情感が居心地悪くなりそうな恥ずかしい情景なのだけど、他に幾つもある窓の中になら、こういうものがあってもいいんじゃないかという気がして。というか見つけれて嬉しくなっている自分があった。

そして、
『ミュルハイム・アン・デア・ルール、釣り人』
人工的な造形物が被写体とされる写真作品が大半を占める中、それらしきものがあまり映っていない、緑の樹々と川と釣り人が捕らえられたものである。川の向こうにはセメントで作られた橋も架かっており、「自然」と言ったって、人の手の入っていない自然はこの世界にはもうほとんど残っていないのだけど、それでも非造詣的な景色をとらえた写真が、他の写真と同等に並んでいたのがよかった。

とまあ、とりあえず気になった作品として以上3点を挙げる。
精度の高い、構成的・造形的なグルスキーの作品の、曖昧な部分。世界をカメラで切り取ることで生じざるを得ない、世界の不完全な部分。そういったところであろうか。
たぶん、その揺らぎもグルスキーは心得ているのだろうけれど。


さて、同時開催の「現代美術の100年の実り」と銘打ったコレクション展についても少し。
第1部「パリに集った芸術家たち」、第2部「戦後美術の新しい波」、第3部「アメリカの美術革命」、第4部「現代美術としての写真の展開」、第5部「美術は今、ヨーロッパを中心に」の5部構成で美術館収蔵作品の中からセレクトして展示。個人的に大好きなパナマレンコやカバコフの立体造形や、クリストのプロジェクトのためのドローイングが見れたのがとっても嬉しかったのだけど、それらの作品について語るのはとどめ置いて、展覧会としてはジャコメッティの「男」という絵画作品が展示されているのが良かった。

ジャコメッティと言えば、矢内原伊作という日本人男性との逸話が有名である。
彼らはちょっとしたいきさつで出会い、やがて親しくなり、画家とモデルという関係になるのだが、ジャコメッティはどうしても矢内原を自身が満足するようには描けなかった。見た通りに描けば描く程、対象から遠ざかっていく。ジャコメッティは時には発狂しそうな声を上げ、涙を見せ、矢内原はそんな彼を慰め、日本への帰国を幾度も延期する。ジャコメッティは矢内原に徹底的に向かおうとし、矢内原もそんなジャコメッティに誠心誠意応えようとした。
ジャコメッティが矢内原に向き合うなかで体得した独特の表現は、矢内原がとうとう帰国して後も彼の中に残り、高い評価を得ている。
今回展示されている「男」という作品も、矢内原がモデルとなったものなのかは知らないが、そんなジャコメッティの作品への姿勢があらわれたものだった。画面はほとんど暗く塗りつぶされ、中心にいる男と背景の輪郭も曖昧で、男の顔も明確な形とならず、目や鼻や口は厚塗りした絵の具を細い棒のようなもので円や線でかきとったような痕跡が残るだけである。
それはほとんど絵の具の固まりのようにも見えるし、とても人間らしくも見える。


グルスキーとジャコメッティ。どちらも眼前の世界に対峙して、それらをまっすぐに映しとろうとしているのだが、精緻に均質に世界が映し出された写真を見た後では、いかにモデルの本質を迫るかの過程で形象を失っていった絵画は、よりいっそう面白く見えた。

他にも心惹かれる作品があって、全体として見応えのある展覧会だったので、まだの方はぜひどうぞ。


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