よそみ余所見

余所見は、見たり聴いたりした事と、それについて考えた事などを書くウェブサイトと紙の雑誌です。

第1号(249版)
2017年10月19日 16時40分33秒 発行

連載記事 

掲載日:2014-04-10 22:17:02

【連載記事】金魚の夢を見る(中島彩)

金魚の夢を見る 中島彩

いま、車の免許を取りに、五島列島の福江島(長崎県五島市)というところに来ている。
ここへは、教習所があること以外にも見たいものがあってきて、いま、順調に見て感じることができていて、その話もしたいのだけど、まだまとまらない。
そこからは少し離れ、ここでこの目で直接見たものとは言えないけれど、確かにここでだから見たものの話をする。

金魚の夢を見た。
それはたまに夢に現れる。
もともと夢はよく見て覚えている方で、夢の中でこれが夢だと気づいてコントロールしたり、夢の中でしゃべっていることを実際に口に出したり(=寝言を言ったり)、時にはその自分の声で目を覚ますくらいなのだけど、たいていその日あった出来事の一部が繰り返されたり、関連づけられる事象があらわれたりする。

ちなみに、ここの教習所の寮に入って最初の晩には「にゃあ」と寝言を言っていたと、そのとき相部屋だった女の子が教えてくれた。教習所に猫がいると事前に聞いていたのに、来てみたら猫はいなくなってしまったと知ったことや、夕方の散歩ですばしっこい猫を見かけたことから、夢の中で猫と遭遇していただろうことが推測される。

ところが、金魚には縁があまりない。子どもの頃に実家で飼っていたことがあるけれど、そのときはそれほど可愛がっていた記憶もなく、今現在思い出すこともないし、接する機会もない。

どういうときに金魚の夢を見るかというと、大学受験の試験前日や、仕事がまったくもって忙しく何日か徹夜が続いているような余裕がないとき、ふと金魚があらわれるのである。
夢の中の金魚は大概良くない状態にいる。

金魚の夢は大概鮮やかで、目が覚めた後しばらく布団の中で絶望的な気分を味わう。コーヒーを飲むかして、少し落ち着いた後、まだ明けきらぬ空を見て、また布団に戻る。朝がきて、朝食を口にし、人と会うような時刻になってもはっきりと思い出すことができる。

今度の夢の中では、ふちが割れた金魚鉢にかろうじて水が入っていて、そこに赤い金魚が三匹なんとか泳いでいた。金魚鉢は兄が持っていて、兄が金魚鉢を割ったという認識なのか、私は兄に「あんた、ええかげんにしいや!!」と叫んで、その声で、目が覚めた。

教習所の寮に入って一週間。最初は相部屋だったのが、シーズン的に学生が減っていき、部屋をひとりで使え、よく眠れるようになった二日目の夜のあけ頃の夢だ。よく眠れるようにはなったものの、翌日には仮免許の試験を控え、試験に落ちることで大阪へ戻ることが遅れ、仕事に支障を来すかもしれないことや、指導して下さっている教習所の先生方、応援して下さっているスタッフの方々、落ちれば気遣ってくれるだろうここでできた友達たちの手前、何より自尊心のかたまりみたいな自分の性格から、落ちたくない、と無意識に強く思っていたのだろう。
心配事があると金魚の夢を見る、というのが私のこれまでの経験からくる解釈で、私はけっこうそれを信じている。星占いや血液型占いは信じないけれど、自分の夢は信じるし、世間でされている夢分析や夢占いも真剣に見てしまう。
夢は自分の脳内で実際に起こっている出来事だと思うからだ。

結局、仮免許試験は合格したののだけど、金魚の夢を見たことから、「思いがけない悪いことが起こる」(夢解釈によると、金魚自体は幸運の象徴だが、鉢が割れていたり、水が汚れていたりすると、不吉なことにつながるらしい)と、普段以上に、自分でも信じられないくらいに緊張した。

現実の反映であろう夢を見ることによって、それが現実に影響を与えていくなんて、なんだかイヤな悪循環。
と思いつつ、今読んでいる本に、こんな一文があった。

  現代人は、自分の夢の中に誰かが出てきたら、自分がその人のことを気にしているからだろうと考える。平安時代には、自分の夢の中に誰かが出てくるということは、その人が自分を思っていることを示すと考えられていたという。(『脳と仮想』茂木健一郎P.49 4~5行目)

なるほど、と思った。
文脈によると、前者の現代人の夢に対する考え方は、すべての因果律を科学的に明らかにしようという近代的な世界観のもとで形成されていて、後者にあたる近代化学誕生以前は仮想が現実に力を与えるものとされる世界観である、という話である。

金魚たちが私のことを思っていて夢にでてくるのだと仮想するには少し思い込みの努力が必要だけれど、金魚の夢をみると私はよくない状態にいる、と考えるのも近代的な世界観にとらわれた思い込みなのかもしれない。少なくとも、金魚が私を思っていると自然に考えられる時代もあった(それもかなり長い年月)という事実は、なかなか気を楽にさせてくれる。

馴染みない土地で、ジェネレーションギャップを禁じ得ない世代の人たちとも交流しながら、新しい技術を身につける。(教習所の先生たちは、車の操作はメカニズムを論理的に理解することも大事だけど、なにかにつけイメージすることが重要という)
それは、ある世界観では金魚の夢を見るくらいストレスの大きいことかもしれないが、違ったところでは、まったく別の世界観でものを見れるようになる機会ともなるかもしれない。
免許ひとつとっても、助手席から見慣れたはずの車からの眺めは、運転席からではまったく違う世界に見えた。
大阪に戻るまでに、できるだけいろんなものを見て帰りたいと思っている。

午前7時頃の教習所


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