よそみ余所見

余所見は、見たり聴いたりした事と、それについて考えた事などを書くウェブサイトと紙の雑誌です。

第1号(249版)
2017年10月19日 16時40分33秒 発行

連載記事 

掲載日:2014-05-13 11:26:18

【連載記事】島はぼくらと、故郷、墓の話(中島彩)

島はぼくらと、故郷、墓の話 中島彩

辻村深月の小説「島はぼくらと」を読んだ。

物語は瀬戸内海の小さな島・冴島を舞台として、その島に生まれた高校三年生の男女4人とその周辺の人々をめぐる青春小説。冴島という名称は架空だけれど、数年前に私が旅した瀬戸内海の島を思い出すと、実際にあってもおかしくないようなリアリティがあって、立派な地方小説としても読める。

具体的に内容に触れる。
島には中学までしかなくて、高校に通うためにはフェリーで通うか、寮のある高校に進学しなければならない。主人公たちはフェリーで通える方を選択したので、一日数本しかない運行ダイヤのため、毎朝夕一緒に通学し、いろいろなことをわかちあうが、同じ島で生まれた同い年という以外、特に共通点はなく、学校での生活ではそれぞれの趣味や性格、外見にあった交友関係を築いている。
そんな状況で過疎化・高齢化は進み、数年前までは島から人は流出していく一方だったけれど、近年ではロハス思考の若者がIターン移住してきたり、住民同士が助け合う地域性が子どもを育てやすいという話を聞いたシングルマザーが引っ越してきたりと、新たな島民が増えてきつつある。しかし当然ながら、新たな島民の価値観と昔からの島民が守ってきた慣習や共同体意識との間にはズレがあり、島はそれらを抱えて新しい時代へと移行する転換期を迎えている。その中で、コミュニティデザイナー・地域活性デザイナーと呼ばれるような職種の人間が、地味に、しかし着実に彼らの間をつないでいこうとする姿も描かれている。

本当にありそうな設定で、なおかつ登場人物たちの心理描写も丁寧にされており、ときおり主人公たちの発する言葉にはっとさせられることもあって、とても楽しんで読めた。

「故郷」というものについて最近よく考える。「島はぼくらと」の主人公たちにとって、冴島は故郷と言える土地だ。高校卒業後の進路で島を出たとしても、「ただいま」と言いたい・言える土地だと考えている。
私が旅先で出会うその土地の住人たちも、それらの土地を故郷と捉えている人が多くて、若い頃は都会の方で働いていたけれども、帰ってきたという話を良く聞いた。
私は大阪で生まれて、今も大阪で暮らしているけれど、とりたてて故郷という感じはしなくて、長期家を空けてしばらくぶりに戻っても、どこでもないところにいるような妙な浮遊感があって、仕事を再開し日常的に顔を合わせる人と会ってようやく帰ってきた気分になる。けれどそれは不安定で、留守をしている間に相手の事情が変わったりして以前のような関係性に戻れなければ、私はよそ者でしかないように感じる。もっと確実な、土台と言えるようなものは何なんだろうかとこの数年ぼんやり考えていたのだけど、先月五島に行ったときに、それはお墓なんじゃないだろうかと思った。

滞在していた福江島には墓地がたくさんあって、少し移動しただけで墓を目にしない日はなかった。大阪ではあまりない感覚だ。隠れキリシタンの島だから、十字架のある墓地を期待していたのだけど、まず遭遇したのは、日本で一般的な石を四角く切り出したもので、近くの漁師町の海の見えるいっとういいロケーションに、墓標が海を見渡せるような角度でいくつも並んでいた。きっとずっと漁師をやっている家系なんだろう。潮風を受けて多少劣化はしているが、それもいい味わいになって、堂々とそりたっている。奥地の隠れキリシタンの集落にいくと、様相は異なり、十字架の掲げられたキリスト教徒の墓や、それと日本風のものとが合わさった独自な形態の墓が増える。迫害のひどかった集落では、その集落を見渡せる丘に教会があり、そのさらに奥にキリスト教徒の墓地があって、迫害され殉教した明治初期の人々の名前が刻まれた墓が並んでいた。留蔵とかツルとかヨネとかいういかにも昔の日本人な名前の上に、パウロとかガリシアとかマリヤとかいう洗礼名がついている。そういった名前の人たちは近年にもまだ残っているようで、2012年没と彫られたものもある。風化しているものと新しい墓石は混在していて、周辺の雑草は刈り込まれているが幾つかの花は残して咲かせてあるというように、常に手入れがされてきたことのわかる、とても美しい墓地だった。
きっと子どものころからこういう墓地に連れてこられ、墓に刻まれた祖父母や曾祖父母の名を見て育ったなら、自分がその土地に生まれたこと、その土地に暮らしてきた人の血を継いでいること、自分のルーツみたいなものに対してのアイデンティティを好む好まないに関わらず持たざるをえないだろうなと思った。

去年、両親が墓を買った。それまでは、私が死ねばすぐに入れる墓はなかったのだが、これからはその墓に入る事になる。もし結婚すれば、その相手によりけりということになる。それらのことは、考えてもあまり実感がない。この実感のなさが故郷を持たない感覚なんだと思う。そのことについて考えた時、寂しいともせいせいするとも思わず、ただそうなんだというだけなんだけれど、たぶんこの根っこを持たない感覚は旅に行きたいという気持ちに若干結びついている。もし旅先でこの土地に墓をつくりたいとか、この墓に入りたいと思うようなことがあったら、それは大きな転機になるだろうなあと思いつつ、それを期待するでもなく、次はどこに行こうかと地図を眺めている。


余所見