よそみ余所見

余所見は、見たり聴いたりした事と、それについて考えた事などを書くウェブサイトと紙の雑誌です。

第1号(249版)
2017年10月19日 16時40分33秒 発行

連載記事 

掲載日:2016-02-11 12:55:21

【連載記事】差異と同一(山本握微)

差異と同一 山本握微

 自分で何か考えたり、或は他人と議論したりするときに「差異」と「同一」の概念を駆使することがよくある。
 「それとこれとは全く違うこと」というのが差異で、「それとこれとは全く一緒のこと」が同一だ(ですよね?)。差異も同一も、普通はそこにただ認められるだけ、なのだけれど、考えごと次第によっては「差異である」「同一である」という見地が、時に思考や議論を大幅に加速させる。
 その加速度の高さ故、特に議論においては事故も起こりやすい。そもそも「差異である」という意見は同一に対して反旗を翻すわけだし、「同一である」という意見は差異に対する通り魔なわけだ。
 当たり前のことつらつらと書いているけれど、そもそもそういうことあるよね、とただ認識することによって、事故を減らそう、という目論見(余所見じゃないな)。

 差異の例。これはよくある。同一よりも差異を見出す方が寧ろ思考として一般的か。多分、昔々は、ぼけーっと世界があって、全てが同一であったろう。ある日、太陽と月は違う、肉と麦は違う、自分と他人は違う、と次々と差異を見出していった、のだろう。
 先日、実際にあった議論の一例。
 良い書棚(という商品開発)、について話し合っていて、僕は今、壁面の書棚を設えて使っているけれど、以前は小箱を多数作ってそれを積み重ねて使っていた。この小箱は、古本屋さんが古本市に使う小箱を参考にして作成した。運ぶのにも便利だし、積み重ねれば即席で店の出来上がり。市が終われば店でもそれで陳列できる。運搬良し、収納良し、拡張性良し、汎用性良し。理想的な書棚の最有力候補だ。これを売り出そうぜ。
 と、僕が提案したら「ああ、ブックキューブみたいなものか」と切り返された。
http://www.bookcube.jp/
 ブックキューブについては僕もよく知っている。でも、それとは全く違う、という話になった。確かに形状は似ている。それが長方形か正方形か、という細やかな差異で違うと言っているのではなく。片や「綺麗に見せる陳列のため」片や「多量の本を効率よく保管、運搬、陳列するため」。陳列、という点においては共通するけれど、ブックキューブはその陳列に特化している。ブックキューブは寧ろ収納量を減らして、綺麗に見せる使い方をする。多量の収納を効率良く持ち運びできるために用いられる小箱とは設計思想が全く違う。
 それに「昔から古書店で用いられている」というバックストーリーが商品としては重要だ。業務用の什器が、日常でも質実剛健なものとして使えるものとして見出される、という流行もある。単に日常でもオゲー、というだけでなく、古書店で使われていた、というストーリーによっておしゃれさも加わる。勿論、それが実際に古書店で使われていた中古品という話でなく、設計思想としてそれはあればいい。対してブックキューブはベンチャー企業(?)が、新刊書店の陳列のために編み出したもの。
 そこまで僕がまくしたてた後、相手は一言。
「いや、すまん、俺にはどう考えても、ブックキューブと同じに見えるんだが……」

 同一の例。差異の方が一般的だが、同一もまた重要だ。同一性を見出せば、参照できる事例が広がる。
 が、議論において具体例がすぐに上げられない。なので架空の例。
 おにぎり会社の業績が悪化して役員が責任をとって退任、とうとう外部から経営立て直しに新役員がやってきた。おむすびの会社からだ。これについて古株の社員たちは猛反発。「おむすびに、おにぎりのこと、わかるわけない!」
 そこを偶然通りかかったおむすび出身の新役員。古参社員に優しく語りかける。「ああ田中さん、わかります。確かにおむすびとおにぎりは違います(どこが違うかよくわからないけれど)。でもね、結局『安く仕入れて、付加価値をつけて、高く売る』という商売の基本は同じなんですよ。おにぎりもおむすびも同じなんです。(というか、ぼく、ホントは銀行出身なんで、おにぎりもおむすびもどっちも知りません)」
 差異に拘り複雑化して袋小路、こういう時「同一」を見出すことが光明になる。どんなものにも差異を見出せるからこそ「同一」は知的でもあり勇気である。

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 どちらが良いことか、は勿論、状況によって異なる……だけでなく、困ったことに同じ状況下で同じ対象でも(そして時には同じ人でも)「そこに(敢えて)差異/同一を認める」ことがあり得る。

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 作品批評の際には、褒めるために細やかな差異を見出し、貶めるために既存の概念と所詮同一と看做す、ことが多いか。(※)

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 「言葉の暴力」という言い回しがある。言葉、の、暴力。それは、言葉の中では暴力に位置する、ということなのか、暴力そのものになった言葉なのか。
 例えば、酷い悪口を言って、言われた人や回りの人が「それは言葉の暴力だ!」と非難する。それは、言葉の中でも特に酷いこといって傷つけたよ、ということなのか、本当にぶん殴られるのと同じダメージを与えたのか。
 ……「ぶん殴られるのと同じダメージを与えたのだ。 言葉の暴力を用いるってのはそういうことだ」……それは、ホントのホントに拳でぶん殴られるあの暴力と「同一」なのか。血が滲み、目が眩む、そして何より「痛い」……痛い痛い、あの肉体の痛さ、苦しさ。それと同一なのか?

 高校生の頃、人権系の研修で、被差別部落出身の人が「差別の言葉を投げつけられること。それは例えば言葉でも、とんかちで殴られたように痛い」と言っていた。その真実性は一旦保留しつつ、僕は(折角「研修」という場で聞いたので)その「同一」を敢えて信じることにした。言葉は時に、暴力に匹敵する。言葉でさえそうなのだから様々なことは暴力になり得る……。ならば、暴力的な様々なことに対抗するため、時に黙って暴力を振るう、振るわれることも、それほど無茶苦茶な話ではない。

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※ 追記

 「同一」で作品を褒める、という例を思い出した。「これ、実はダンテ『神曲』と同じ構造を持つんですね」的な、過去の古典になぞらえるやつ。これは結構多い、というか、むしろこっちがスタンダードか。


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