よそみ余所見

余所見は、見たり聴いたりした事と、それについて考えた事などを書くウェブサイトと紙の雑誌です。

第1号(249版)
2017年10月19日 16時40分33秒 発行

連載記事 

掲載日:2016-05-05 12:03:46

【連載記事】アートの時間だぜベイベー(山本握微)

アートの時間だぜベイベー 山本握微

 タカハシ‘タカカーン’セイジ個展「やってみたかったことを売ります買います展」へ行った(以下、売買展と略す)。事前にSNS等に流れていた関連テキストを読みつつ、当たりをつけつつ、職場帰りに寄った。他に客が一人「やってみたかったこと」を売買交渉をしていて、僕は展示だけを観て、去った。

http://20160411-0503.tumblr.com/

 滞在時間は短かったが、面白かった。テメエの話になるけれど、僕の「運動展」とあまり変わらない(なので、面白いという他は無い)。ある種類の、一掴み程度の、思念が書かれたテキストの展示。運動展の場合は、単に「僕が面白いと思うこと」が掲示されている。売買展はもう少し凝っていて、タイトル通りのコンセプトのもと、「やってみたかったこと」という思念は実際に売買された契約書の体裁で書かれている(なので、契約書独特の文法やリズムが効いている)。書かれている思念が、実現性とは一旦、無関係な点も共通している。どちらも「個展」であることが、思念を引き出す動機付けになっているが、売買展の方が、更に金銭を介す体裁をとることで、作家又は来場者の思念を引き出す仕組みとなっているので、こちらの方が美術的な企みに満ちている、とも云える(故にこそタカハシさんの方は良くも悪くもごく普通のあってきたる美術で、ギャラリーが当初期待した?枠組みを問いかけたり揺るがすようにはなっていない。片や俺様の運動展は普通であるが故に美術という枠組みを揺さぶる傑作となっている)。また、明快でもあるし、詩的な余白もある。加えて契約書に添えられたレシート、コンビニで契約書をコピーした際に生じるものだが、一見内容と無関係ながら、アナログな手書き契約のタイムスタンプをデジタルなレベルで果たし、この使い方は造形的な見た目も含めて秀逸だと思う。

 あるコンセプトのもと生成された契約書を美術となす作品自体は既に多数ある。と言いつつ的確な例を挙げられないが、先ず想起したのは「隣の部屋〜日本と韓国の作家たち」(国立新美術館,2015年)における韓国人アーティスト、イ・ウォノの「浮不動産」というインスタレーション。展示場に入ると先ず目にするのはシンプルだが巨大なダンボールハウス。ここに入って通り抜けると、展示場壁面には額装された契約書が多数掲示されているのが見える。脇にはモニターがあり、アーティストがホームレスと交渉し、ダンボールを買い取ろうとする様子の記録が放映されている。先ほど入ったダンボールハウスは、日韓のホームレスが実際に「家」として使用したダンボールを買い集めて再構成したものだとわかる。面白いのは映像中、困窮しているだろう多くのホームレスが、お金は別にいいよ、と譲ろうとするところ。それでは作品が成立しないので、その家に、それを集めるために費やされた労働に対してお金を支払う、と説得する作家。また当初「ダンボールが欲しいならあそこで手に入る」と教えてくれたが「ああ飽くまで家として使用されたダンボールが欲しいわけか」と、抽象的なコンセプトに歩み寄ろうとしてくれるホームレスなど。ともあれ、本作において、こうして出来上がった巨大なダンボールハウスもさることながら、契約書が重要であることは言うまでもない。契約は、国立新美術館の名義が記され、ひいては国が税金で購入したことになり、ホームレスは美術史に組み込まれる。

 さて、売買展は面白いが、幾つかの粗はある。第一に、氏は音楽を軸にライブやパフォーマンスをやってきて、今回、美術に沿うにあたり「ものとして残る」点に着目したと、どこかで書いていた。なるほろだけど、今回の作品もまた殆どがパフォーマンスだ。その行程は間違っていないけど、展示はその先にあった方が良い(その際、売買時の映像も添えれば尚、今時の美術っぽくなるでしょう)。勿論「その制作過程を作品として展示しているのだ」でも良いんだけれど、前述のような意図があるのであれば、展示の位置づけをそうした方がお互い良いのではと思った。会期の最後に「総括」のトークイベントがあったと思うが、普通は「総括」したものを展示するのである。

(話は逸れるが過日、某アートNPOのイベントで、そこは各種で行われるアートイベントの映像記録を業務の一つとしているけれど、それについて客席から「記録の活用は為されているのか」と質問があった。これに対しNPO側は「今すぐ活用されることを目的に記録しているのではなく、何十年後かのために記録している(勿論、現在の活用にも効率良く供されることは大事だという前提で)」と応えた。アーカーイヴに関する理想的な答ではあるが、僕はザッと以下のことを考えた。アートにおける映像アーカイヴの勘所は「記録の対象となる」ことで「記録される程のことである」と周囲に知らしめ、対象自体を権威付ける、という点だろう。その後の活用は三日後だろうが三十年後だろうがあまり関係はない。記録されている「さま」こそ重要で、極端な話、カメラマンとカメラがあればテープは無くても構わない。何が言いたいのかと言うと、パフォーマンスでもモノでも、残らないものは残らない。次から次へと目移りする現代において、アーカイヴを参照する余裕など普通は無く、だとしたらその瞬間をより強く印象づける方が良い)

 第二に、第一と関連するが、肝心のテキストが少ない。展示終了前日で数件程度なのだから、況やをやをや。売買ということで、この個展はある種の小売店を開店するようなものだが、まるで見通しの甘いただの読書好きが立ち上げた古書店のよう。店を開けば在庫は捌け、魅力的な本が多数買取りされるような。その志は認めるとしても、そこはもう少し、各種の技術を駆使して在庫にせよ買取にせよ豊富になるよう仕向ける必要があるだろう。例えば、先ずは作家が販売用に「やりたかったこと」を多数羅列しておくとか。

 そして一番まずいのは、ギャラリー側との不和を開示してしまった点だろう。デュシャンが便器を展示してから早百年、個展と称して例え何もしなくても充分成り立ってしまうほど(寧ろ気が利いた展示だと云える)、現代美術は既に倒錯してくれているのに、比較的コンセプトも明確なこの展示で、画廊における責任だの意義だの云々しょうもない話を表に出すことは無い。そもそもどこに問題なのかよくわからない。
 この件については、議論がまとめられているフェイスブックのページがログインしないと参照できないようなので、別途ばらばらに引用されているテキストを追うのみであるが、まあ、ギャラリストが端的に悪い。内部的にどちらが良い悪いか別として、最終的な責任はこの場合、ギャラリー側にある。展示はそのギャラリーで実際に行われているのだから。ギャラリー側が「単にギャラリーの見る目が無かったのかもしれません」とコメントを出したように、話はそれで終わる(複眼なのに目が無いとはこれ如何に)。そのお祖末な見る目を飲み込んで、結局のところどう落とし込んで行くか(不和を開示するぐらいなら中止の方がマシだろう。そして中止を背負い込めばいい。作家ではなくギャラリー側が展示をしながらこうして不和を唱える構図は他に見たことが無い。勿論、独特で良いという意味はなく、筋が通っていないからだ。どちらが領収書を発行するかという戸惑いに似る)。

 それを前提とした上で敢えて外野が内部事情を覗き込み、タカハシ氏について思うのは、勿体無い、ということ。僕はタカハシさんをよく知るわけではないが、才能溢れる人だと思う。でも、それを真正面から発揮せず、また引き受けず、パフォーマンス(アサダワタル)、音楽(米子匡司)、演劇(岸井大輔)、文藝(仲俣暁生)、と各ジャンルで既に実績を持つ人物と次々に交流・対談するなどして、本人は常におどけて見せるのが主な芸風となっている。
 彼に直接・間接的に影響を与えたであろう少し年上の界隈の人間、アサダワタルとか蛇谷りえとか米子匡司とか岩淵拓郎とか、の立ち振る舞い、日常再編集だとか町の道具だとかメディアピクニックだとか一般批評だとかうかぶだのしずむだのひらがな数文字で名付けるセンスとか、を真に受けて、こういう作風になったのだろう。彼奴等界隈の背景には技術も戦略も文脈も歴史あり極めてしたたかなのだが、なるたけそれを表に出さず無邪気無垢な一小市民として世間と対峙するのが共通したルールとなっている。これを表面だけ真似て、裸一貫、自分の素朴な感性のみを「信仰」し、しかもその文法は肯定文でも否定文でもなく、主に疑問文によって構成される。

 僕如きからでも氏に届くよう罵倒語を慎重に選ぶなら、氏の芸風は(あんまりこういう言葉は使いたくないが)「赤ちゃんプレイ」と似る。常に「ママ」役を対置させ、自らはバブーと洒落込んでみせる。ママは、それに対してヨチヨチとあやしてみたり、時にめっ!と叱ってみせ、周囲はそれを暖かく微笑ましく見守る。赤ちゃんは時々、赤ちゃんであるが故にママや周囲の大人をひやりとさせる言動を放つ。こうした赤ちゃんの振る舞いから大人もまた多くのことを学ぶのも確かだ。しかし、それは本当の赤ちゃんから学べばいい。赤ちゃんプレイも時には良いだろうが、それは閉ざされた空間でやるべきで、周囲から眺めて気持ちの良いものではない。悪趣味な見世物に過ぎない。
 今回の敗因は、ママ役のギャラリストが既にリアルなママだったせいか、何時もの甘えが通用しなかったことに尽きるだろう。
 「僕が最も嫌なのは、「この展覧会を、いつでも中止してやるぞ」というトリガーを、僕のこめかみに銃口を当てたまま脅すような言動や態度」とは穏やかでないけれど、アーティストの戦いは普通、そこから始まる。ベイベー。


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