よそみ余所見

余所見は、見たり聴いたりした事と、それについて考えた事などを書くウェブサイトと紙の雑誌です。

第1号(249版)
2017年10月19日 16時40分33秒 発行

連載記事 

掲載日:2016-07-10 00:55:22

【連載記事】あばらかべっそん(中島彩)

あばらかべっそん 中島彩

 このところ月に一度は、落語寄席に通う様にしている。もっぱら動楽亭が多いけれど、そうでなくてもいい。
 現在、上方落語家協会には270人程の噺家が在籍しているらしい。270というと、月に一度、毎回異なる6人ずつの席を見れば、3年9ヶ月で全員を見終えることができる人数だ。実際のところは、よく出る人もいればそうでない人もいて、そううまくはいかないのだけど、少し忍耐強く見続ければコンプリートできる可能性は高い。そうなれば、ちょっとした感想を言っても(たとえば「イマドキの上方落語家はさ…」なんて言っても)知ったかぶりと言い切れないだけの説得力があるだろう。これが音楽家だったり、ポケモンだったりしたら、次から次に増えていって切りがないし、6、7年かかるとなると、飽きてしまうかも知れない。3年9ヶ月っていう、中学・高校に通うよりは長く、一般の大学よりは短いくらいで、もしかしたら留年するかなくらいの、なんともそそる感じ。

 そんなわけで、今日も動楽亭に行った。6人のうち、4人はすでに見たことのある人で、すでに留年の気配がしているのだけど、このところ噺家だけでなく演目もかぶりがちで、「遊山船」は3ヶ月連続で聞くこととなった。先々月の桂ざこば、先月の桂南天に続き、今日は4番手に桂わかばの「遊山船」である。浪花橋から川に浮かぶ屋形船を見下ろしての場面を描いていて、いかにも大阪の夏らしく、この時期に重なるのは致し方ない。とはいえ、さすがに3ヶ月続くと次から次への笑いどころもサゲをほとんど覚えていて、話の筋だけでは笑いにくい。ところがそれでも笑ってしまったり、聞いてしまったりするところがある。

 なぜだろう。なぜ私は笑うのだろう。なぜ私は落語を聞きに行くのだろう、とあらためて考えた。
 知ったかぶりになりたくない、全体を見渡したい、なんて欲求だけではないだろう。

 それは、ひとえに落語は人が魅せる芸だからだ。
 ジャズと同じ様に、同じ演目を誰がどう演じるかが面白いのだ。いや、見ている最中はそんなことは考えない。知っている演目だから、「聞き漏らすまい」と耳をそばだてるでもなく、ぼんやりと眺めているのである。それでもふつふつとおかしみがこみ上げてくることがある。たとえば噺家のちょっとした仕草や癖に、その人だけがもつ味わいを感じて。落語用語ではそれを「フラ」と呼び、一般には「キャラ」というような呼び方もするが、それだけでは言い表せないような、ふつふつとしたおかしさ、愛おしさ。そういうのを感じることが好きで、そもそも私は人間が好きなのだろう。しかも、270人を見たいのだ。かなりの人間好きじゃないだろうか。

 しかし、とつまづいた。
 しかし、私はひとりで見に来ていて、この後もひとりで一人暮らしの家に帰る。せっかくの休みの日に、誰かと会って話をする予定はない。ひとりで過ごすのが好きなことと、落語を聞きに行くのが好きなことは、なんだか矛盾していそうだ。
 けれど、そうではない。人間が好きだということを、少なくとも愛おしく感じることがあるということを、思い出したくて、落語を見に行くんじゃないだろうか。

 と、考えると、会場に来ているお客さんの、とりわけ常連の人たちも、きっと普段はあまり笑わない人なのかもしれないと思えてくる。そうだ、普段から人と笑っていれば、お金を出してあらためて笑いに行く必要なんて、あんまりない。そう考えると、ここで聞く笑い声はとても貴重な笑い声に聞こえてくる。

 中入(休憩)を挟んで5番手にざこばの「笠碁」。マクラから笑い通しで、隣客らの笑い声と自分の笑い声とが混じり合う。
 トリは米輔の「住吉駕籠」。米輔さんはざこばさんとは対照的な噺家で、静かで滑らかな語り口。滑らか、というよりは途切れない、という方が正確だろうか。客席がどっと笑いに沸く、ということはない。じっと話に聞き入って、私はその感じも好きなのだけど、他のお客さんはどうなのだろう。笑い声はそれほど聞こえず、わからない。わかるのは、客席を向いて客の表情が見える、米輔さんだけだ。噺家もまた、孤独な職業だ。

 
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 今日の演目、他3つは「桃太郎」團治郎、「いたりきたり」吉の丞、「明石飛脚」しん吉でした。


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