よそみ余所見

余所見は、見たり聴いたりした事と、それについて考えた事などを書くウェブサイトと紙の雑誌です。

第1号(249版)
2017年10月19日 16時40分33秒 発行

連載記事 

掲載日:2016-08-14 12:42:41

【連載記事】様々なものの行方(山本握微)

様々なものの行方 山本握微

 何かを始めるのに遅すぎることはない、とは思うけれど、この年齢になると、最初からその終わりについて想像を巡らせないわけにはいかない。もう幾つかの終わりを経験したのだから。そう思うと、何かを新しく始めることに、少し躊躇する。
 既に終わってしまったそれら、は結局のところ、何だったのだろう、と思う。勿論、如何なるものにも終わりがある。問題はその終わり方か。いや、例えみっともない終わり方だとしても、終わった後に後悔を経て忘却されたとしても、その「最中」に少しでも意味があったのなら、始めた甲斐はあったのだろう、というか、それが全てではないか、とも。それに、始めなくては、そも何も無い。けれど、終わりが、その過去である今現在も塗り替えてしまうような感覚に恐れる。

 この当「余所見」も、既に終了した代物だ。このように書き込み可能なウェブサイトは残って、ドメインの維持に主宰がお金を支払い続け、つい先日も不具合のメンテナンスがあったけれど。まあ、元はウェブも活動の一角という位置づけだったので、当初の目論見からは外れ、終了している。
 こうした終わり方は決して想定外だった、というわけではない。終わりについて想像すれば、高い確率で頓挫はあり得ることだと簡単に想像できる。けれど、これについては始めた頃は、如何なる終わりについてもそも考えが及ぶことは無かった。今から約7年前のこと。

 僕は思春期の頃よりずっと芸術が最大の関心ごとなので「芸術、芸術ー」とばかり言ってこの年齢まで過ごしてきた。今この瞬間死ぬなら、「む……芸術」と考えて死ぬだろう。ただこの先、生活が困窮し、更に年をとって、日々に精一杯となり、その中でもそれなりの幸せや楽しみを見つけ、押し寄せる細やかな問題に対処し続け、やがて「芸術、芸術ー」といっていた気楽な期間よりも長く切実な日々を過ごしたとなると、死の間際、芸術のことを思い出すだろうか。その時には、「芸術、芸術ー」という思い自体が、そんなこともあったっけかな、遠い若い頃の何やかんや、と一緒くた、老いた今となっては、だけでなく、人生を通じて別に大したことでもなかった、と思うかもしれない。結局のところ、そういう風に終わってしまうなら(その確率はすごく高い)、この今だって、何のために考えているのだろうか。

 「既に終わってしまったが事実として確かにあった過去」があるとしても「思い出せる過去」と、「もう思い出さない過去」にわかれる。この区分は果たして重要か。よくわからない。終わるにしても、後に参照されるならいいけれど、思い出されることすらない過去がやがて待ち構えているのなら、まだ終わっていない現在、その事実の最中にいることも虚しくなる。

 最近は折りに触れ、「様々なものの行方」というフレーズが浮かび上がってくる。どこから来て、いや、来歴は問わない、それは既に通りかかったのだから、しかし一体、どこへ行く?

 未来は、未だ来ていない、わけではない。それは「必ずやって来る」と既に決まっている。なら、未来というものは既に決まりきった過去の出来事と割り切った方が良い。
 そう考えると、始めよりも、過程よりも、それがどう終わるのか、どのように着地したのか、が一番の興味となってくる。

 これは勿論、組んだバンドが花咲かず解散して今はトラック運転手で家族もいて幸せです、といった話だけではない。そこかしこで行われている議論など。激しく言い争っていたあの二人は結局どうなったんだろう、と懐かしく思って調べたら、別にどうにもなっていなかった、というような。

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 小学五年生の頃。いわばクラスのガキ大将だった小森君に、或る日、反撃したことがあった(小森事件)。キッカケはふとした拍子、おいどけよ、ドン、とちょっと押しのけられたくらいだが、日頃の横暴を含めて「おまえはいつもッ!」といって敵意を露わにして掴み掛かろうとした(このシーンは目撃したクラスメイトによって後に何度も再演された)。が、向こうは仮にもガキ大将、咄嗟に反撃、正確に顎へ一発を見舞われる、慣れない痛みひるんだ僕は距離をとり……といったところですぐさま先生の仲裁が入った。一時的に代理で来ていた先生だった(教育実習だったかも)。
 怪我を覚悟した、どう転ぶかわからない、熱い時間はすぐに終了した。ここからは、学校で何度も繰り返された、見飽きた風景だ。先生がお互いの言い分を聞いて裁き、お互いごめんねと謝り合い、終息。この、意を決した反撃も、結局のところそうして終わることは、もうこの瞬間にわかった。
 放課後のことだったので、一定の事情聴取が終わった後、家に帰された。その後、それぞれの保護者に連絡があったのだろうか。小森家から家に電話があった。最初は保護者同士の、どうもどうも、で、小森君の親もガキ大将っぷりを多少は認識しているだろうから、小森君が謝る形となった。小森君が謝るから、と僕に電話がかわられた。
「ごめんな、いままで」
 小森君は誠実に謝っていた。それは声でわかった。お互いの保護者も交え、完全な「終わり」のムードだ。でも、それで筋金入りのガキ大将ぶりと横暴が無くなるわけじゃない。結局、しばらくして何も無かったように着地する。僕は、そこで終わらせることに抵抗して、何とか声を絞った。
「そんなんで許せるか!」
 慌てて母が電話を代わり、フォローする。かなり譲歩したつもりの小森君は電話の向こうで怒りを倍増させる。僕はスカッとした……わけはない。息も絶え絶え、目には涙が溜まる。しかし向こうの負けすら認めず、戦争を継続させようとした。とにかく、まだ争い続ける。根っこから解決するまで。
 翌日、どのように再度話し合ったか詳しいことは覚えていない。根っこからの解決ができたわけでは勿論無い。でもまた再び、先生の仲介によってリアルに対峙し、そこで終わることしか出来なかった。
 しかしこの一件は、或る意味では終わらずに、今の僕の行動にも深く根を下ろしている。

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「今ここで終わるくらいなら、そもそも何故始めた?」

 これはアメリカ同時多発テロに至るアルカイダとアメリカの動向を追った本「倒壊する巨塔」(ローレンス・ライト、白水社)にでてくるセリフ。アイマン・ザワヒリがアルカイダ内で意見が分かれるなか放った言葉として登場するけれど、この部分は著者の創作だろう。止まれない原理主義者を表していて、劇的にはなかなか格好良い一節。劇のフライヤーに引用した。

 取り敢えず、ではあるが「終わらせない」ということは僕の方法論の一つとしてある。継続は力なり、という話ではなく。
 最も嫌なのは、ただ終わるだけでなく、「卒業した」などと称して、終わりを誤魔化すためにわざわざ砂をかけるような態度だ。
 いや、「次へ進むために終わりにする」という潔い態度にしても。何故、それを終わらせるのか。やはりそれも、続けることを女々しさと貶める。嘘でも、続けておけば、続く。

 中学生の頃に作ったゲームサークル「デイターク」は、転校後に知り合った人達と別途結成した「エルドリンクス」と後に合併し「游演工房」となった。これは今でも劇団で公演活動する際は、制作の名義として使用している(実際に、稽古場を借りる時も登録したこの名義を使用する)。
 今でもファミコンで遊ぶ。週刊少年ジャンプを読む。FM-TOWNSのエミュレーターを走らせる。山本正之を聴き続ける。更新される限りは読み始めたウェブログを読み続ける。実際にゲームを遊ぶ機会は少なくなったけれど、ゲームについて楽しく考える。余所見にも投稿する。
 まあ、これはただの超保守的な考え方なだけとも言える。ある種の傾向に見受けられる、こだわり行動に過ぎない気もする。というか単に、何時までたっても子供じみている。子供の頃、大人ぶって過去を切り捨てる様子が嫌だったから、ああはなるまい、と実際に実践すると、このていたらく。
 ともあれ過去ばかりをひたすら引きずって、新しいことに興味が向きにくい。

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 本好きの女性四人が発行するフリーペーパー「はちほんあし」今月の特集は「はまっているもの」だった。この特集、ものすごおく、何でも無い、複数人が執筆するフリーペーパーの特集としては大定番、第一号にだけ許されそうな、単にそれぞれの興味を述べる、ありきたりに思うけれど、なかなか面白いと思った。
 これは語感から感じる勝手な定義だけれど「はまっている」のは正に今現在のことで、やがて醒める、飽きる、抜け出す、終わる、ことが最初から織り込み済み、なこと。生涯の仕事と信じることを「はまっている」とは言わないだろう(間違ってはいないけれど)。
 こういうテーマが与えられたら、むしろ一瞬で醒めそうなものを選びたいぐらい。むしろ変わり種、変化球の特集とも。そう考えると、少し気が楽だ。何かをこれから始めるにあたっても。

 僕が今ハマっているのは(そしてもうすぐ醒めるのが)「カスターニャtanatan!!」という新婚夫婦漫才師。ネクタイの代わりにカスタネットがついた衣装を着て、なんでやねん、と突っ込むたびに、タン! と鳴る……いやそんな馬鹿な、と童話の世界から出てきたような可愛らしさ。ネタも「中華料理屋ですべって転んだ!」とか「ヘソクリが旦那にばれた!」など、ほんわかふわふわ平和的なもの。妻のたまちぇる(という芸名)は、容姿端麗とてもキュートでありながら、謎の人妻感がにじみ出、MCではよく「ホンマに夫婦なん?」と言われるけれど、一瞬で納得させられる。
 単に愛らしいだけでなく。NSCを卒業したて、芸歴、夫婦歴とも一年未満の超若手ながら、完成度が高い。ネタが爆発的に面白いわけでは決してないけれど、世界観が完結して淀みが無い(実はネタ全体が一曲のカスタネット演奏として全体を制御されていることもあるだろう)。確信をもってやっている、といった感じ。というか、NSCを卒業してもコンビを組んでは解消し、が珍しくない若手芸人において、迷いが無さ過ぎる、結婚という大いなる初手。試行錯誤する気なし(そもそも、若手の多くはやがて消えて行く)。そのせいか、既に複数のコンテストで好成績を収めたりと、テレビ出演など引き合いも多い(これ観るためにワンセグの受信できる場所を探し深夜の街を彷徨った)。お昼の番組リポーターとしてとても使いやすそう。戦略的ですらある。

 単純に、はまっているもの、を時には気軽に示して終わりにしようと思ったけれど、ここまで書いて、カスターニャtantan!!の魅力は、若手なのに安易に「終わり」を感じさせないところにあるのか、と思いました。


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