よそみ余所見

余所見は、見たり聴いたりした事と、それについて考えた事などを書くウェブサイトと紙の雑誌です。

第1号(249版)
2017年10月19日 16時40分33秒 発行

連載記事 

掲載日:2016-10-08 03:31:56

【連載記事】9月に見たもののメモ4(中島彩)

9月に見たもののメモ4 中島彩

◎9月17日
 友人・知人たちと、これまで集めてきたチラシを見る会をした。この会については、人に説明して面白さを伝えられるようなものではないが、この記事を見た人には、集めたチラシを振り返ってみることをぜひおすすめする。何人かで集まれればさらによい。人それぞれの関心ごとがあらわになり、過去の記憶が思い起こされ、自分とは接点のなかったある場所ある時代の潮流を疑似体験できる。
 インターネット上に情報が氾濫する現代、チラシをわざわざ作らなくとも、WEBサイトやSNSを活用すれば充分じゃないか、なんて考えはじめていた私は、紙のチラシの偉大さにノックアウトされた。

◎9月18日
 その会場の熱気には毎年驚かされる。まるで朝イチの魚市場のように、ずらりと商品が並び、買えや買えやと怒号が飛び交う。文学フリマ。文学とは何ぞや。配られたパンフレットには、大枠に小説・詩歌・評論・ノンフィクションの4区分、そこからさらに、小説ーエンタメ・大衆小説・純文学・児童文学・絵本・短編・掌編・ショートショート・ファンタジー等々と細分化されていく。ほんとにいろいろな種類の本があり、ほんとにたくさんの本が並んでいる。中にはコピー紙ホッチキス止めの冊子もあるけれど、ほとんどは高いクオリティの製本で、本屋に並んでいてもおかしくないような仕上がりだ。自費出版対象の印刷・製本業者が数件あって、ツヤツヤの表紙の文庫本まで、個人で作れるようなのだ。パソコンでデータを作って、ネットで入稿。ほんとに普及してるんだなあと実感する。
 それから、こんなにも多くの人々が、文章を紡いで何かしらを描き出したいと思っているんだなということに驚く。

 とはいえ、出展者は大学文芸部や社会人サークル、同人会などのグループが多くて、キャッキャと言葉を交わす売り子たちや、盛り立てられた販売促進のPOPなんかを見ていると、それぞれのブースに並ぶ本たちの何割かは、まず部活動ありきの副産物なのではないかと思えてこなくもない。
 そんな私が興味を惹かれるのは、基本売り子は一人、飾り付けはシンプルで、一人の著者によるもの、と思わしきブースだ。文学フリマに行くのは今回で三回目だが、回数を重ねる毎に目当てが絞られていった。確か最初は、何週も廻ってこんなのもある、あんなのもある、と目移りしながら、サークルで制作されているものも買ってみたし、それはそれで面白かったんだけど。

 本はコミュニケーションツールだ、っていう考え方がある。ZINEなんかは特にその性質が強くて、交換会も積極的に催される。ワイワイと作って、ワイワイと交換・配布して、作者と読者が(その立場はしばしば反転する)顔を合わせて楽しむ。文学フリマに出展されるものもやっぱり、コミュニケーションツールっていう感覚は強いんだろう。
 文学フリマの賑やかな様子を目の当たりにすれば、本がコミュニケーションツールであることは否定できない。けど私は、本 イコール コミュニケーションツールではないと思っている。だから、それぞれのブースで積極的な交流が行われている中、ひとりポツンとたたずむ人と、その目の前の本っていうのが気になる。この人は、書かずにはいられなかったんじゃないだろうか。その先にある誰かに見せるっていうことより、まず、書くことが必要だったんじゃないか。そんな風に見える、私の気になってる人は4人。

 一人目、高森純一郎さん。毎回文学フリマに出品しておられる。スーツ姿で誠実そうで、前を通るとにこやかに自作の説明を書いたチラシを渡してくれる。それによると、近現代のアジア史を咀嚼した長編小説を書いているとのこと。気にはなっているけれど、ブースに置かれた実物はほんとに長編っぽくて、買ったことはない。高名な作家の定評のある超大作ならともかく、文学フリマで買うにはちょっと勇気がいる。しかしながらあとでWEBサイトを検索したところ、この日3作品中2作品が売り切れたとのこと。好評らしい。

 二人目、ふしぎあんさん。柔らかい雰囲気の青年。堺の怪談噺とか、大阪の近世史を調べて、物語を書いているよう。「大阪市内 謎の狸地蔵巡り」という本を買った。コピー紙ホッチキス綴じB6サイズで80円。タイトルの通り、大阪市内で祀られている狸地蔵(狸の形の石像)の紹介という内容で、そのうちの一つの狸地蔵が近所にあることもあって、なんだか共感した。巡りたいよね、巡ったら、記録したいよね。

 三人目、おおたやすひとさん。おっとりした感じの青年。残念ながら、今回は出展していなかったのだけど、初回の文学フリマでその作品に出会い、慕っている。「梅子と僕」というタイトルが付けられた絵日記集で、うめちゃんという女の子と僕の日常を描いている。まず絵が何とも味わいがある。文章は毎回「今日は」からはじまり、うめちゃんがどうだったとか、うめちゃんとどこにいったとか、小学生の日記みたいな書き方なんだけど、じんわりと優しい。ちょっと繊細で気難しいうめちゃんと、それをおろおろしながら見守ってる僕の関係がなんとも優しい感じなのだ。作者のおおたさんがほんとに「僕」で、うめちゃんという人がいてほしいと思うんだけど、実際はどうなんだろうか。イラストは手書き感溢れているんだけど、節々に見せ方がうまいなと思うところがあって、もしかして全部意図的な創作なのかも知れないとも思う。そうだとしても、この人は作ることが好きなんだろうと思えて、好ましい。

 上記の三人は、ブースには一人だけど、制作物はなんだか楽しそうだ。書くことが好き、そこから出発して、見てもらったらなお嬉しい、そんな感覚なんじゃないだろうか。
 ところが四人目、舘正樹さん。この人は一番理解しがたくて、気になってもいる。六十代後半くらいの白髪まじりのおじさんが、まるで苦行かのようにうつむき加減でパイプ椅子に座っていたら、それが彼だ。本は「八ヶ岳散人」というタイトルで、第5号まである。ブースの前に言っても、無言。「これ下さい」と声をかけても、ぼそぼそと値段を言われるだけで、まったく嬉しそうじゃない。なのに第一回から連続して文学フリマに出展している。そこがまず分からない。
 「八ヶ岳散人」は舘さんが定年退職後に八ヶ岳に家を買い、移住生活を送ってからの散文集。自由な身となった今は趣味三昧、若い頃から愛好している文学の世界を深めようと、自らも文章を書きはじめたとのこと。創刊号はご友人からの寄稿もあって、本を作ることの楽しさが見て取れる。
 ところが第5号では、文章は日記が中心になる。八ヶ岳での生活は温泉とグルメ巡りで端から見ると羨ましい限りだが、よくよく読むとあそこのランチは値段の割にボリュームが少ないとか、あそこの温泉は源泉掛け流しじゃないとか、やたら不満が多い。ついにあとがきには八ヶ岳の暮らしに限界を感じはじめ、家を売って町の生活に戻ろうとしていることが書かれていた。その流れは「定年後の田舎暮らしの失敗談」として別の興味は惹かれるが、読んでいて楽しいものではない。日記から窺える舘さんの人間性は、ちょっと気難しがりやさん。物事を前向きに楽しむ姿勢はなく、思い通りに行かないことがあるのが気に食わない。高齢にさしかかり、積年の経験から、自分の基準から反れるものをなかなか受け入れられない。それほど楽しくないなら、書かなくていいのに、出展しなくていいのに、と思うんだけど、きっと彼は書くこと、出展することを彼なりの理屈で自身に課していて、それは揺るがせないんじゃないだろうか。その理屈は、分からない気もするし、分かるような気もする。面倒くさそうとも思うし、強い意志を感じて尊敬できなくもない。
 ただ、ふと思うのは、これは文学フリマのような機会がなければ、なかなか目にすることのできなかったものなんじゃないかということ。書かずにはいられなかったのだろうし、それはパソコン上にデータとして残るだけじゃなく、製本して形あるものにしてみたかったのだろう。けれど、そこから不特定多数の人に見てもらうことへは、だいぶ距離があるんじゃないだろうか。

 誰もが簡単に何かを発信することができる。そんな現代には、情報発信ありきの経験も増えているんじゃないだろうか。かくいう私も、何かを経験しながら、「これは余所見に書けるかな」「これはSNSに載せようかな」と考えてしまうことがある。そう意識してしまうと、経験がどんどん鮮度を欠いていく。経験は現在進行形であるはずなのに、それを書く未来を想定して、同時進行で振り返っている感じ。その感じはつまらない。
 SNSのタイムラインに流れるトピックを見ながら、たくさん情報を挙げる人がとり挙げなかった情報とはどんなものだろうと、私はよく考えている。それは人の共感を呼ぶような、見ててほっこりするような、情報ではないかもしれない。「いいね!」はひとつもつかないかも知れない。けれど、そこにあるレアな(ナマの)経験や情動を、見てみたいなと思う。

 ところで、今回の「9月に見たもののメモ」シリーズは、普段は余所見に書かないくらいのまとまった感想のない「見たもの」をともかく書いてみようとしていて、できるだけレアな状態を保ちたいと思っている。書くほどに失われていく生々しさをなんとか保ちたいと思いながら。 


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