よそみ余所見

余所見は、見たり聴いたりした事と、それについて考えた事などを書くウェブサイトと紙の雑誌です。

第1号(249版)
2017年10月19日 16時40分33秒 発行

連載記事 

掲載日:2010-09-23 01:22:18

【連載記事】『またもけだるい灰色のデルタデー』(ひろゆりか)

『またもけだるい灰色のデルタデー』 ひろゆりか


 伊丹・アイホールに久しぶりに行ってきた。
 アイホールは私の家からとても近くて、歩いて15分ほど。ダンサーや演劇をやってる友人とアイホール前でバッタリ会って「え なにしてるん?」「いや、地元やし」ということもしばしば起こる。アイホールで観劇する際にいつも見かける人や名前思い出せないけど顔は知ってるという人ともよく出会う。
 今日はヤン・ファーブル『またもけだるい灰色のデルタデー』を見てきた。

 ヤン・ファーブルというと、昆虫や血液などを用いたグロテスクで皮膚感覚をぞわっとさせるような美術作品を作る大御所、といった印象がある。今まで2、3回見たことある程度だったので、彼に関しての知識はほぼない状態で観た。
今回の公演は、事実上ヤン・ファーブル演出作品の関西初演となるらしく、観客層がいつもより濃かったように思われる。前述の「よく見かける人」や「顔は知ってる人」をたくさん見かけた。カンパニーメンバーによるアフタートークの際の質問者らの語り口を見ていると、美術や演劇の玄人だらけといった感じで、いつもの市井の素人くさい質問が飛ばないのが少し淋しくも感じた(ある公演で役者が全裸になった際のアフタートークで、市内に住む主婦から「恥ずかしくなかったですか?」というストレートな質問が飛んだことが印象的)。


 ボビー・ジェントリーの「ビリー・ジョーの歌」という歌がこの作品の発想の源となっている。私はその歌を知らなかった。
 ヤン・ファーブルは自身の経験や感情を元に作品をつくる。その制作過程は「上書き保存」の繰り返しで、開演の10分前まで変更することもあるという。アフタートークでカンパニー・メンバーの語った「彼は最後までカオス(混沌)を信じている」という言葉が印象に残っている。
 さて、ヤン・ファーブルの作品を美術館でしか見たことのない私は、舞台作品もさぞエキセントリックでグロテスクで鳥肌が立ってしまうのだろう、と予想していた。フライヤーにある「激しく、挑発的な表現の多いファーブルにとっては異例ともいえる、ナイーブで美しく、…」という宣伝文句をあまり信じずに観始めた。

 とても優しく、繊細な作品だった。

 舞台上には炭鉱のイメージシンボルとして用いられた石炭の小山、そこを走る鉄道模型。それから天井から吊るされた10個の鳥かごと10匹のカナリア。アメリカ的な光景をバックに上手にロッキングチェアで手紙を見つめる、黄色いドレスの女性。現代的な要素と中世的な要素が入り混じる。
 途中、「意外とエンターテイメント性が高いなぁ」と感じて、見たことあるものになるかな、と斜め目線で見ていたら、ある瞬間を境に急に引きこまれて、見たことのない、感じたことのないものへと変わった。どのあたりだっただろうか。
 ソロダンサーのアルテミスがピンヒールのパンプスを放り投げ、セクシャルながらも明るく奔放に舞台を駆けまわる場面だったか、石炭の小山と鉄道模型で滑稽な遊びをする場面だったか、ビール瓶を下着の中に突っ込んで立ち小便を模倣して観客を湧かせた場面だったか… 何かの思い出をなぞるような、慈しむような、繊細な振り付けだったように思う。半裸になったダンサーが石炭の炭で自分の体を塗りたくり始めたときに、ようやく「そういえば、ヤン・ファーブルの演出だった」と思い出した。体に走った、あのワクワク、ぞくぞくする感じは、振付と衣装の賜物のように思う。同じような感覚は、数年前に同会場で黒田育世/SHOKUの公演で味わったことがある。まだ学校を出てまもないという若いアルテミスが、この情感あふれる振付で踊るからこそだったのかもしれない。

 アフタートークの質問コーナーの際に、玄人っぽい観客からの「カナリアが鳴いていないように聞こえた」という質問に、ダンサーは驚きながら「すごく元気に鳴いていましたよ」と答えた。「鳴いていたカナリアが鳴いていないように見えてしまう…なんて逆説的な、、、うんぬんかんぬん(聞こえなかった)」という質問者。視覚情報に集中するあまり見えなく聴こえなくなっていたのだろうか。ちなみに、私の席(最後列・真ん中)からは、よく動くカナリアたちが見えていた(動物愛護団体に何か言われそうだと余計な心配までしてしまった)。これからはアフタートークなんかの質問者の観察をしても面白いかもしれない。
 帰り際、散々迷った挙句、知り合いの学芸員さんと共に「おそらく今買わないと買わないだろう」と言って、戯曲集『変身のためのレクイエム』を買った。本作のテキストが掲載されていたのだが、こんなにセリフがあっただろうか、歌っていたから気付かなかったのだろうか。おそらく演出上、脚色も多少されているのだろう。15ページほどの詩文。これを舞台上でアルテミスが朗読し、詠う。


 最後に、舞台上で終盤に読まれた一文を引用しておく。
 観客それぞれに響く一文があるように思うが、私にはこれがこの作品を作った一番の理由のように感じられた。

  「13:59
   僕の出発を悲しい事件として受け止めないで
   ありふれた体験として受け止めて
   この場面に
   もうずっと前から僕はここにたどりつきたかった
   あらゆる演劇は
   死の学習ではないか              
      (ヤン・ファーブル『変身のためのレクイエム』/書肆山田)」



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