よそみ余所見

余所見は、見たり聴いたりした事と、それについて考えた事などを書くウェブサイトと紙の雑誌です。

第1号(247版)
2017年8月15日 16時52分12秒 発行

連載記事 

掲載日:2017-08-15 16:52:12

【連載記事】似姿論(山本握微)

似姿論 山本握微

※ この作文は、(かなり)以前に発行した余所見の何かしら小冊子に収録したものです。発掘したので、ここに再録します。

 こんにちは。似姿研究室へようこそ。それでは今日も早速「物語における似姿」について楽しい議論を交わしましょう。
 何? 物語における似姿、がどういう意味かわからない? なるほど、貴方は偶然、この研究室に迷い込んできたのですね。何、ご心配はありません。すぐにあなたもめくるめく似姿の世界の虜になるでしょう……。

 似姿とは文字通り、似ている姿。つまり「そっくりさん」のことですね。物語、主に漫画における登場人物の、そっくりさん、が私の研究対象です。しかも、ただ、そっくりさん、なだけでなく、
「登場人物が主に死亡するなどして退場した後、唐突に登場してその後釜を担うそっくりさん」
 が対象です。何言っているのかわからない?
 つまり……「物語を盛り上げるために、どうしても登場人物の死が必要だが、一方でこいつが死んじゃうと、後々の展開に困る……そうだ、じゃあ、こいつに兄弟か何かがいたことにして、その後の役割を継ぐことにしよう! 顔もそっくりにしておけば、違和感もないだろう……これで物語も盛り上がるし、破綻しないし、一挙両得、三方良し、そっくりさんさまさまや!」……これです。
 そんなご都合主義がまかり通るのか? とにもかくにも、そんな似姿たちの実例を見て行きましょう。

 先ず、一番有名どころはご存知「金田一少年の事件簿」に出てくる、佐木竜太と竜二です。
 竜太は金田一少年の同級生で、レギュラーメンバーとして一緒に事件へ巻き込まれます。彼は映像機器を扱う店の息子であり、彼自身もビデオカメラを常に携行し、撮影しています。それが証拠として活きることもあり、まさに探偵ものにうってつけなキャラクター。そんな彼自身の出自もまたご都合主義と言えるかもしれませんが、そんな性格・役割が災いし、ある事件で偶然トリックをといてしまい、犯人に口封じのために殺害されてしまいます! 週刊少年漫画で、レギュラーメンバー、しかも主人公と同じ学生が、殺されてしまう……。なんだかんだいってレギュラーは安泰でしょ、という暗黙のお約束を反故にしており、かなりショッキングでした。
 が! その後、彼の弟である竜二が後を継いで、レギュラーメンバーになります。性格も見た目もそっくり。兄と同じく映像機器を携行し、物語における役割も同じように果たします。
 事件後、佐木家では悲痛な葬儀が行われたと想像しますが……そっくりな弟がこんなに元気なんだから、ま、いっか、兄のことはまあ、しゃあなかったわな、という気になります。
 思い切ってお約束を破る、まるでその反作用として生じたご都合主義……。やはり少年誌では、彼は死にました、それだけです、じゃすまなかったのでしょうか。その後も、常に埋め合わせることの決してできない彼の不在を痛感しながら物語を進めることは、できなかったのでしょうか(あらゆるエピソードのラストを「いくら事件を解決しようが竜太は戻ってこない……」で結ぶ)。
 でも、そっくりの弟がその跡を継ぐことで済む話、なのでしょうか。

 次に紹介しますのは、似姿といえば、の「静かなるドン」です。つい先日、とうとう二十年以上に渡る連載が終了し、単行本にして百八巻を予定している大長編。ですが、その物語は精密に練られたプロットというより、古き良き週刊漫画といった感じで、極めて行き当たりばったり、でたとこ勝負。でもこれがべらぼうに面白い!
 「憎しみの連鎖」が大きなテーマですが、連鎖というより「連載」と言い換えた方がいいでしょう。人気がある故に続く、続く故に憎しみが断ち切られない、新たな戦いが常に起きる……結局、登場人物の殆どが死に絶えることによってしか、物語を終わらせることができませんでした。
 登場人物が新陳代謝するこの物語は、似姿のオンパレード。死んでしまったヤクザには、実は双子の弟がいて(万間正造、万間猛)と、復讐劇に暇なし。
 面白いのは、そっくりなのに、似姿の所以が兄弟とは限らないことです。近藤の側近の一人、沖田は、渋い役どころですが、抗争のうちに悲惨な死を遂げます。その跡を継いだのは、引田。名前も顔も性格そっくり。姓が違うので血縁でもないはず。でも、そっくり。この引田、結果的にはほんの序盤で死ぬ沖田に比べて長く活躍しますが、最後の抗争では沖田同様、あっさり死亡します。
 静かなるドンに欠かすことのできないコメディリリーフ、生倉新八。その配下で、戦闘隊長の小林秋奈。この二人の遣り取りは、ああ「静かなるドン」だなー、という気分になる名シーン。小林は、銃弾を避ける、という特殊能力があります。避けた後「チッチッチ」と指を振って挑発するのがお決まり。この特殊能力のおかげで、血なまぐさい物語でも、ギャグキャラクターとして生きながらえるだろう……と思いきや! とうとう敵に囚われの身となり、避け切れないほどの銃弾を浴びせられ、絶命してしまいます。
 ええ! こいつ殺しちゃうの? と、誰もが思ったに違いありません。もう、あの二人の遣り取り見られないじゃん……。しかし、その後を、今度は「大林」なる人物が現れ、引き継ぎます。これもまた、似て非なる名前。ただし、完全にそっくりというわけではなく、小が大になったという感じで、小林に比べ大林は体格がずっしりしています。でもやっぱり髪型など、キャラクターデザインはそっくり。大林は、「危険を察知する」という特殊能力があり、危険が迫ると辺りをうろつき叫び回る、という滑稽なシーンも。あの銃弾避けほどインパクトはないが、まあこれで安心か……と、思いましたが、やはり小林に及ばず、その後影が薄くなり、登場しなくなります。似姿の失敗作。

 え、何ですって? 所詮、似姿は、週刊漫画誌程度の安っぽい、いわばパルプフィクションの産物に過ぎず、議論に値しない、ですって?
 では、とっておき、バリバリのアート方面から、似姿の例を紹介しましょう。

 あの蓮実重彦も絶賛した映画、ヴィターリー・カネフスキー監督のロシア映画「動くな、死ね、甦れ!」。カンヌ国際映画祭のカメラドール賞受賞の、文句なしのアート系ですね。
 観たのだいぶ前なので、どんなんか忘れましたが。終戦直後、ロシアの村に生きる、反抗的な少年ワレルカが起こす度の過ぎた悪戯。そんな彼を、ツンツン見守る魅力的な少女ガリーヤ。何故か忘れましたが、ガリーヤはラストで死んじゃいます。可哀想に。その死に衝撃を受けた彼女の母親が全裸で狂乱する、という衝撃的なシーンが映画のラストです。
 これだけのことをやらかしておいて!……続編の「ひとりで生きる」では、実は彼女にワーリャという妹がいて、死んだ姉に成り代わり、ワレルカを見守るのです! 演じるのは、同じ俳優、ディナーラ・ドルカーロワ。同一人物だから、まごうことなき似姿です。というか、殆ど、前作の死だけが無かったことにされて物語が続くような状態。勿論、第一作ではワーリャの存在は一言も触れられません。
 それってどうなの?(ソ連だけに)。フェミニズム的にいえば、滅茶苦茶です。男の主人公を可憐に見守り続ける少女、例え死んでも今度はそっくりの妹が用意されている。

 このように、似姿の問題というのは、単なる「ご都合主義」だけの問題でなく、その根底には倫理的な問題が潜みます。いてほしい、という「生」と、いなくなってしまえばいい、という「死」を、フィクションならではの手法「似姿」によって折り合いをつける。現実的には不可能だからこそ、この物語の表現は、看過できない違和感を持つ。

 それにしても……普通に考えれば手法として「似姿」は下の下でしょう。いわば夢オチに類するような。それでもしばしば用いられる似姿の妖しき魅力。もし、他に似姿の例がありましたら教えて下さい。

追記

 CLAMPの漫画って、敢えて「似姿」がモチーフになっていましたっけ。「X」でそんなシーンがあったような。


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