よそみ余所見

余所見は、見たり聴いたりした事と、それについて考えた事などを書くウェブサイトと紙の雑誌です。

第1号(249版)
2017年10月19日 16時40分33秒 発行

連載記事 

掲載日:2017-01-22 03:45:10

【連載記事】沈黙(中島彩)

沈黙 中島彩

 遠藤周作の小説「沈黙」がマーティン・スコセッシ監督により映画化されて、今日が公開初日。
 見てきた。
 結論から言うと、素晴らしくよくできていたけれど、私は今とても複雑な気持ちだ。

 そもそも、原作の小説がすごく好きだ。いや、好きとはちょっと違うかも知れない。それは私にとってひどく心を揺さぶられる小説だった。
 キリスト教徒が迫害された江戸時代の日本を舞台に、ポルトガルから密入国してきた宣教師を主人公においた物語である。私は江戸時代を生きてきたわけでもないし、キリスト教にも縁もゆかりもない。けれど私は「沈黙」を読みながら、そして読んだ後も、この作品に書かれていることを考えていた。それは信仰(といっても宗教に限らず、何かを信じること。あるいは信念のようなもの)とは何か、自分の軸となるものは何か、それは社会の中で変わるものなのか、道徳とは、正義とは、そういったこと。それは、読むまではモヤモヤと感じていた自分に対する違和感に、明確な命題が与えられたような感覚だった。

 映画は本当によくできていた。映像は美しい。ひとつひとつのショットも、ライティングも、カメラワークも、これこそが映画だと思えるような美しさ。ロケーションもいい。いい、というか合ってる。というのも、私は「沈黙」の舞台となる五島や長崎に行ったことがある。旅の前後に遠藤周作の本を読み、今も残っている教会や切支丹墓地を廻っていた。私の見た海の暗さや、島の端の鬱蒼とした森。それは同じ目で見たものではないけれど、確かにこの映像なのだ。

 そして、俳優のキャスティングと、それぞれの演技も素晴らしかった。
 若い宣教師ロドリゴ役(アンドリュー・ガーフィールド)は彫りの深い顔立ちで、表情が豊か。確かに、この話の中では、この顔立ちであるべきなのだ。それが一層日本人の薄っぺらい顔を引き立たせる。
 裏切り者のキチジロー役は窪塚洋介で、彼の斜視の目が気味悪さや得体の知れなさを醸し出し、切支丹弾圧を先導する筑後守役のイッセー尾形も、その声や仕草にひょうきんさを感じさせるのに、一瞬の表情に冷酷さを覗かせる。
 それから名も無い漁師や農民たちの顔。原作には彼らの顔についての印象的な描写が幾つかある。若い宣教師には、日本人の薄い顔は、骨格の違いと言うより、苦しみを押し込め表情を張り付かせた仮面の様に見えるのである。そしてその仮面の奥に不気味なものを感じている。そこで描かれている顔は、確かにこの顔なのかも知れないと、映像を見ながら思った。
 実体のロドリゴが、キチジローが、農民たちがいる…
 「沈黙」の映像化として、マーティン・スコセッシのこの映画は完璧だ。きっと彼は原作を何度も読み返し、ひとつひとつ丁寧に作り上げていったのだろう。私はそこに敬意を抱くし、共感を感じる。
 だけれど、見終わったあと、私の胸にはポカリと穴があいたような寂しさがあった。

 本を手に、白い紙に印刷された文字を追っている間、私の頭の中で登場人物たちはもっとぼんやりとした顔で、だからこそそれは時々私自身の顔にもなった。私はロドリゴの中に自分と同じ生真面目さを見つけ、だからこそ一緒に迷い苦しんだし、キチジローの弱さを自分の弱さの様に悔い、筑後守の政治的判断にも一理あるとシンパシーを感じた。時には拷問を見守る農民となって、悲しみと同時に、拷問されるのが自分ではなかったと安堵を感じもした。
 しかしその感覚が、映画の中では感じられなかった。俳優の演技は素晴らしく、だからこそロドリゴはロドリゴでしかなく、キチジローはキチジローでしかなかった。映画の中のことは映画のことでしかなく、自分自身がスクリーンに投影されることがない。そんな疎外感を感じたのである。
 それは、文学と映画と言う芸術の特性によるものかも知れない。言葉の選び方や句読点の打ち方まで、作家の息づかいを感じながら自分の脳裏に描き出して味わう文学と、映像や音声の圧倒的な情報量を前に、観客として享受する映画。
 あるいはこの映画を、自分のものとして消化吸収することもできるかも知れない。例えば本を読む時は独りであるように、映画館の観客席を独り占めできたら。(というのはこの映画中のサウンドトラックもすごくよくて、タイトルの通り無音の場面や小さな音の効果が効いていた。それで余計に他の観客の気配が気になる)
 もしくは何度も何度も、セリフ回しを覚えるくらいに映画館に足を運んだら。
 そうしたら、この映画は私の血肉となってくれるだろうか。

 
 これは原作あっての映像化にまつわる、よくある話の様に聞こえるかも知れない。けれど、そうじゃないと言いたい。
 大概の映像化は、「原作をうまく描けていない」か、「別の作品として成功している」かのどちらかだ。前者の場合は、「ここが違う」「と言えることで、自分の中の原作像を保つことができる。後者の場合は単純に別物として享受すればよく、やはり原作像は保たれる。そうでなくて「沈黙」はそのままに正しく映像化されているのだ。だからこその寂しさ。
 私は、私の「沈黙」を独り占めしたかった。
 (感動は共有すると増幅する、なんてよく言われるけれど、それって本当?というのは、このところ疑問だ。人に話すうちにどんどん失われていく気がして、私はできるだけ話したくなくて、それは余所見の記事を書く時にも、どうしたら消費ではなく、かといって人の心に残したいわけでもないけれど、ただあるように書けるだろうか。)

 この映画でひとつだけ違うと主張できる点は、ラストシーンによって、「沈黙」がキリスト者のための映画になってしまったことだ。映画が時間を伴う芸術である以上、ラストの印象的なショットは当然のことかも知れない。
 けれど遠藤周作の「沈黙」は決してキリスト者だけのためのものではなかった。小説「沈黙」の制作ノートと言える「切支丹の里」というエッセイに、遠藤周作は切支丹弾圧への関心が踏絵を踏んだもの、裏切り者を想うことから始まったと書いている。遠藤周作は、文学者だけができることとして、徹底的に弱者に目を向け、声を聞き、描こうとしたのだ。そのためにも、ラストはドラマチックであってはならず、小説のラストは切支丹屋敷役人日記という資料を引用した形で、淡々と終わっている。だからこそこの小説は誰もがに訴えかける力を持つのだ。

 それでも、マーティン・スコセッシ監督のこの映画は素晴らしい。
 ただ、誰もがに見られたくはない。原作の小説を読んでいない人にはもちろん、読んだ人にも全員には見てもらいたくない。「分かる人」だけというのではない。ただ、消耗される映画ではあってほしくないのだ。興行の失敗を祈りながら、私はこの記事を書いている。


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